お目出たき人

『お目出たき人』

武者小路実篤によって執筆された長編小説『お目出たき人』は、1910年2月に脱稿され、翌1911年2月に洛陽堂より刊行されました。この作品は、実篤の初期文学における重要な位置を占め、当時の主流であった自然主義文学とは一線を画す、明るく純粋な青年文学としての特色を強く打ち出しています。

作品の特色

物語は終始「自分」という一人称で語られ、主人公の内面世界、特に若い女性に対する純粋で真摯な思いが率直に吐露されます。自然主義文学がしばしば描いた陰鬱な人間関係や社会の暗部とは異なり、本作は主人公の楽天的な思考や、理想へのひたむきな憧れを通して、清々しい読後感を与えます。この「自分」という言葉の多用は、自己の内面を深く掘り下げようとする作者の姿勢の表れとも言えます。

刊行時には、単なる小説本文だけでなく、『（「お目出たき人」の主人公の書けるものとして見られたし）』と記された付録として、「二人」「無知万歳」「生まれなかつたら」「亡友」「空想」といった短い作品群が挿入されました。これは、主人公の心情や思想をより深く理解するための補足として機能しています。また、扉ページには学習院時代の恩師である高島平三郎先生への深い感謝の言葉が記されており、作者の実篤にとって特別な意味を持つ作品であったことが窺えます。装幀は、白樺派の画家としても知られる有島壬生馬が手掛けました。

あらすじ

本作の主人公は、26歳の学習院卒業生である「自分」です。女性との経験が乏しく、異性への強い憧れを抱く彼は、近所に住む鶴という美しい女学生に心を奪われます。男と女が自然に惹かれ合うことを信じる「自分」は、鶴と将来結ばれることを疑いません。五年もの間、一度も言葉を交わすことなく鶴を想い続ける彼は、豊かな空想力によって彼女を自身の理想の女性へと昇華させていきます。

鶴への思いが募る一方で、仲介役である川路からの手紙により、鶴が多くの魅力的な男性から結婚を申し込まれている現実を知ります。大きな衝撃を受けた「自分」は、その感情を日記や自作の詩にぶつけます。しかし、それでも自分と鶴が夫婦となるのは自然の摂理であると信じ続け、彼女を想い諦めない日々を送ります。

ある日、約一年ぶりに甲武電車内で偶然にも鶴と再会した「自分」は、この再会こそが二人が結ばれる運命であると確信し、鶴への思いを一層強くします。ところが、それから五カ月後、再び川路から届いた手紙によって、鶴が他の男性と結婚し人妻となったことを知ります。それでも「自分」は自然の摂理という独自の信念に固執し、最終的には他の男性と結婚した鶴を憐れむという、どこか常識外れの境地に達します。

主な登場人物

自分（主人公兼語り手）: 26歳。学習院卒業。女性経験がなく、女性への強い飢えを自覚している。鶴に三度求婚するも拒絶されるが、物語を通して希望を失わない。
鶴: 主人公の近所に住み、後に大久保へ転居した美しく可憐な女学生。主人公の「理想の妻」とされるが、最終的に柏木の富豪の長男と結婚する。
川路: 主人公と鶴の縁談を取り持つ人物。手紙を通じて主人公に鶴の状況を伝える。
月子: 主人公が19歳の時に恋した女性。7年前に故郷へ帰った。
母: 主人公を深く愛しているが、世間体を気にする。
父: 主人公の父。世間をやや見下す傾向がある。
春ちゃん: 主人公の4歳の姪。両親が海外にいるため主人公宅に預けられており、主人公の母によくなついている。
叔父: 母方の叔父（45,6歳）。人は良いが頑固で奇行が多く、主人公の父とは気が合う。物語の途中で癌で亡くなる。
中野の友: 学習院時代の同窓生。大学の文科に在籍しており、主人公の恋を知っている。
小石川の友: 主人公の最も古くからの友人。高等商業学校卒で三井物産に勤務。主人公とは気が合うが趣味が異なり、道楽について議論を交わす。
* 柏木にいる金持ちの長男: 鶴の結婚相手。工科を卒業した工学士。

作品の舞台

物語の主要な舞台は、東京都千代田区の大妻通り周辺にあった武者小路実篤の生家周辺です。実篤は生まれてから29歳までこの地で過ごしました。現在のこの場所には全国農業共済会館が建っています。また、鶴が通っていた女学校は、現在の三輪田学園中学校・高等学校であると推測されています。作品中には、主人公が自宅から鶴の女学校まで歩いていく場面が描かれますが、実篤邸跡地から三輪田学園までの道のりには、袖摺坂や永井坂など、高低差のある急な坂道が多いことが知られています。

（参考：瀧田浩「番町文人通りを歩く―白樺派の文学者たちを中心に―」『東京 文学散歩』二松学舎大学文学部国文学科、2014年2月）

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