アイリッシュ・オクトーバー

U2『アイリッシュ・オクトーバー』：信仰と葛藤が生んだ内省的な二作目

1981年、アイルランドが誇るロックバンド、U2はセカンドアルバムとなる『October』（原題も同名ですが、日本ではしばしば『アイリッシュ・オクトーバー』と呼ばれます）を発表しました。前作『Boy』に伴うツアーが同年6月に終了すると、バンドは間髪入れずに7月には次なる作品の制作に取り掛かります。しかし、その道のりは平坦ではありませんでした。

制作過程の困難

このアルバムのレコーディングは当初から難航しました。開始時点で完成していた楽曲は、後にシングルカットされる『Fire』とタイトル曲『October』のごく一部に限られていたのです。ツアー中に披露された新曲もあったものの、バンドはそれらをアルバムに収録する手応えを感じられなかったようです。アルバム制作が遅れた原因としては、ボーカルのボノがツアー中に歌詞やメモを入れたブリーフケースを盗まれたというエピソードがよく知られています。しかし、プロデューサーであるスティーヴ・リリーホワイトはこの説に疑問を呈しており、歌詞はまだ完成に至っておらず、単なるメモ書き程度だったのではないかと語っています。いずれにせよ、バンドが創作面で停滞していた可能性が示唆されます。

さらに大きな困難として、ベーシストのアダム・クレイトンを除くメンバーが当時シャロームという宗教団体に深く関わっていたことが挙げられます。ロックバンドとしての活動と強い信仰心の間で葛藤を抱えていた彼らは、音楽活動を続けるべきか、あるいは宗教的な道に進むべきか深く悩んでいました。この内面的な葛藤も、アルバム制作を複雑にした一因でした。

アルバムのテーマと音楽性

こうした背景を経て、『October』のテーマは自然とメンバーの宗教観に深く根ざしたものとなりました。アイルランドという出自や信仰心が色濃く反映された、非常に内省的な作品となったのです。しかし、ロックの世界で信仰心を赤裸々に表現することは、特にキリスト教文化圏では、しばしば敬遠される行為でした。ゴスペル作品で人気を落としたボブ・ディランの例を出すまでもなく、これはU2にとって大きなリスクを伴う選択でした。ボノ自身も後年、「ほとんどのロックバンドが避ける分野に踏み込んでいる」と語っていますが、それは単に多くのバンドがそうしたテーマを扱いたがらなかっただけとも言えるでしょう。

内省的なテーマを持ちながらも、バンドはこの作品で音楽的な幅を広げようと試みています。『Stranger In a Strange Land』や『Scarlet』、『October』ではエッジがピアノを演奏し、『Gloria』ではアダムが複数のベースを使い分けています。『I Threw a Brick Through a Window』ではラリーがドラムの表現力を限界まで探求し、『Tomorrow』ではアイルランドの伝統楽器であるイリアン・パイプをフィーチャー。また、『With a Shout (Jerusalem)』では一部ホーンセクションが導入されています。アダムの躍動的なベースプレイが特筆されることが多い本作ですが、エッジの自由で実験的なギタープレイも特徴的です。前作『Boy』に比べ、より空間を意識したサウンドメイキングが感じられます。

一方で、プロデューサーのリリーホワイトは、ほとんどの楽曲がスタジオで作り上げられたことによるジレンマにも言及しています。ライブで十分に演奏され、練り上げられた状態でレコーディングされた『Boy』の楽曲とは異なり、『October』の曲はスタジオテイクよりもライブでの演奏の方が遥かに優れている、という皮肉な結果になったと後に振り返っています。

収録曲に見るエピソード

各収録曲には、アルバムのテーマやバンドの状況を反映した様々な背景があります。

Gloria: ニューヨークでのライブ中にステージに上げた女性の名前が歌詞にあると言われますが、ボノ本人はその女性に会う前に書いたと主張しており、真相は定かではありません。ニューウェーブの影響を感じさせるエッジのピアノが特徴です。
Rejoice: 冒頭の歌詞は、ボノが母親の死によって崩壊していく家庭をイメージしたもの。『I Will Follow』と共通のテーマを持つ曲だとボノは語っています。
Tomorrow: イリアン・パイプが使用されているU2の楽曲としては唯一のものです。アイルランド出身というルーツを意識して導入された楽器であり、演奏はマルチミュージシャンのヴィニー・キルダフが担当しました。歌詞については、当初ボノは北アイルランド紛争について書いたと思っていましたが、後に自身の母親の葬儀について書いたことに気づいたと述べています。後年、ボノとアダムによるバージョンがケルト音楽のコンピレーションに収録されています。
October: アルバム制作開始前に既に一部が存在していた曲で、エッジが子供時代以来にピアノに向かった時に生まれたといいます。本来はもっと長くなる予定でしたが、完成せず短い曲となりました。タイトルはアルバムのリリース予定月である10月から取られましたが、歌詞が書かれる前に決まっていました。タイトルそのものに「文明の黄昏」のような意味合いが込められており、メンバーが抱えていた信仰の危機を歌っているとされます。インストゥルメンタルバージョンがフランス映画のサウンドトラックに収録されたこともあります。
Stranger In A Strange Land: ロバート・ハインラインのSF小説『異星の客』からタイトルを借用。Boyツアーで訪れたベルリンで、ベルリンの壁を通過する際に兵士と出会った経験から、ボノが自分たちと兵士の人生の共通点について考えて書かれました。この曲は一度もライブで演奏されたことがありません。
Scarlet: ボノが歌詞を書きあぐねた結果、歌詞が「Rejoice」の一語のみになったというユニークな曲です。当初はアルバムタイトル候補にも挙がっていました。
* Is That All?: 前作『The Electric Co.』のイントロのフレーズを基にした楽曲。一部の評論家からは蛇足と評されています。

ジャケットデザインと評価

アルバムのジャケットは、港を背にメンバー4人が立つシンプルな写真です。歌詞カードを開くとパノラマ写真になる仕様になっていました。後に、日本のテレビアニメ『笑ゥせぇるすまん』に、このジャケット写真をモデルにしたと思われる大きな広告が登場する、という珍しいエピソードも存在します。

『October』はU2の全作品の中で比較的人気が低いアルバムと評されることが多いですが、これはその内省的で宗教色の強いテーマや、当時のリスナーにとってやや実験的に感じられたサウンド、そして一部で「U2史上最もダサい」とも評されるジャケットデザインなどが複合的な要因と考えられます。しかし、その後のU2の作品に見られる精神性や音楽的な挑戦の萌芽は既にこの作品の中に見て取れます。リリース当時は、オランダのOOR誌やイタリアのRockerilla誌などで年間ベストアルバムに選ばれるなど、一定の評価を得ています。U2の多面性や初期の葛藤を知る上で、『October』は決して無視できない重要な作品と言えるでしょう。

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