アベルの殺害 (ティントレット)

ティントレット「アベルの殺害」：聖書の物語を劇的に描く

ティントレットの「アベルの殺害」は、ルネサンス期のヴェネツィアで制作された油彩画です。この作品は、旧約聖書の創世記に登場するカインとアベルの兄弟の物語を題材としています。アダムとイヴの息子であるカインが、弟のアベルを殺害するという人類最初の殺人を描いています。

作品の背景

この絵画は、1550年から1553年にかけて、サンティッシマ・トリニタ同信会館のために制作された連作の一つです。同信会館は、ヴェネツィアのドイツ騎士団によって設立された組織であり、ティントレットは創世記の物語を題材にした5点の連作を制作しました。これらの作品は、同信会館のアルベルゴの間を飾るために描かれましたが、後に同信会館の解散により、個々の作品は各地へ分散しました。現在は、「アベルの殺害」はヴェネツィアのアカデミア美術館に所蔵されています。

描かれた物語

創世記によると、カインは農耕を、アベルは牧畜を営んでいました。ある時、兄弟は神に供物を捧げましたが、神はアベルの捧げた初物のみを喜ばれました。このことに嫉妬したカインは、アベルを野原で殺害しました。神はアベルの所在を問いますが、カインは正直に答えませんでした。神はカインを呪い、大地から追放しました。

ティントレットの表現

「アベルの殺害」では、カインがアベルを打ち倒し、棍棒で殴りつけようとする瞬間が描かれています。ティントレットは、聖書の記述とは異なり、祭壇の上で殺害が実行されている場面を描いています。アベルが生贄として捧げた仔牛の頭部が、画面の右側に転がっています。また、画面の右奥には、追放されるカインの姿が小さく描かれています。

この絵画では、明暗のコントラストが強調され、画面全体に力強い印象を与えています。人物の動きは劇的で、鑑賞者の視線はアベルに集中するように構成されています。アベルの身体は短縮法を用いて描かれ、鑑賞者に向かって倒れこんでくるように見えます。カインのポーズは不自然にも見えますが、これはかつて画面右上に描かれていた神の姿を見上げていることを示しています。しかし、絵画の一部が切り詰められたことで、神の姿は失われ、カインの視線の意味が分かりにくくなっています。

構図と影響

この作品の構図は、ティツィアーノが制作した同主題の天井画から影響を受けたとされています。ティントレットは、天井画の構図をキャンバス画に移し変え、自然の風景の中に物語を描いています。人物の配置や光の使い方は、ティントレット独特のドラマチックな表現を強調しています。

作品の変遷と評価

この作品に関する最初の言及は、16世紀の美術評論家ラファエロ・ボルギーニによるものです。その後、作品を所蔵していたサンティッシマ・トリニタ同信会館は、再建と解散を経験しました。その結果、連作は解体され、各作品は各地へ移されました。この作品は、1812年にアカデミア美術館に収蔵されました。

この作品は、制作当初から高い評価を受けており、その複製版画も制作されました。アンドレア・ズッキが制作した版画は、切り詰められる前の姿を伝えており、作品の本来の構成を知る上で貴重な資料となっています。ティントレットの「アベルの殺害」は、聖書の物語を視覚的に表現しただけでなく、人間の内面にある葛藤や原罪を深く掘り下げた作品として、今日でも高く評価されています。

ティントレットのドラマチックな表現と、聖書の物語の奥深さが融合したこの作品は、ルネサンス美術を代表する傑作の一つと言えるでしょう。

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