エドモンド・フィッシャー

エドモンド・H・フィッシャー

エドモンド・H・フィッシャー（Edmond H. Fischer, 1920年4月6日 - 2021年8月27日）は、スイスにルーツを持つアメリカ合衆国の著名な生化学者です。彼の生涯にわたる研究は、細胞内シグナル伝達の理解に革命をもたらしました。特に、共同研究者であるエドヴィン・クレープス博士と共に、生体内でタンパク質が可逆的にリン酸化される仕組みを発見した功績は大きく、この業績によって二人は1992年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

フィッシャー博士は、当時中華民国であった上海に生を受けました。7歳の頃、彼は2歳年上の兄と共に、学ぶためにスイスの寄宿学校であるLa Châtaigneraieへ送られました。この初期の体験が、彼の後の人生における探求心と自立心を育んだと言えるでしょう。高校時代、フィッシャーは親しい友人と、将来は医師か科学者として、世界の病気を根絶しようという志を共有しました。また、この頃にはジュネーブ音楽院への入学も許可されており、音楽家としての道を歩む可能性も検討するなど、多様な才能の片鱗を見せていました。

高校を卒業するにあたり、当初は細菌学を志していましたが、周囲の助言もあり、化学の分野に進むことを決意します。第二次世界大戦の最中に、彼はジュネーブ大学で有機化学、そして後に生物学を深く学びました。多糖類の構造や、その合成・分解に関わる酵素の研究で知られるカート・マイヤー教授のもとで研鑽を積み、有機化学の博士号を取得しました。特に、彼はαアミラーゼという酵素の働きに関する研究に注力しました。

博士課程修了後、さらなる研究を進めるため、1950年にアメリカ合衆国へと渡ります。当初はカリフォルニア工科大学で研究を行う予定でしたが、思いがけずシアトルのワシントン大学から招聘を受けました。シアトルを訪れたフィッシャー夫妻は、その自然豊かな環境が故郷スイスを想起させ、安らぎを感じたことから、この地に腰を落ち着けることを決断しました。

シアトルに到着して間もない約半年後、彼は運命的な出会いを果たします。それが、後にノーベル賞を共に受賞することになるエドヴィン・クレープス博士です。二人は、グリコーゲン代謝に関わる酵素であるグリコーゲンホスホリラーゼの活性が、ホルモンやカルシウムによって調節される仕組みを研究テーマとしました。この共同研究の過程で、彼らは生体内のタンパク質が、リン酸基の付加（リン酸化）と除去（脱リン酸化）によってその機能がオン・オフされる、可逆的タンパク質リン酸化という現象を発見したのです。

可逆的タンパク質リン酸化のプロセスは、以下のように要約できます。まず、プロテインキナーゼと呼ばれる酵素が、細胞のエネルギー通貨であるアデノシン三リン酸（ATP）からリン酸基を取り出し、特定のタンパク質上のアミノ酸に結合させます。このリン酸基の結合によって、タンパク質の立体構造が変化し、その機能が活性化または不活性化されます。これにより、タンパク質は細胞内での特定の生物学的プロセス（例えば、代謝経路の調節、遺伝子発現、細胞応答など）に関与できるようになります。役割を終えた後、プロテインホスファターゼという別の酵素がリン酸基を取り除きます。リン酸が外れることで、タンパク質は元の非活性な状態に戻ります。このリン酸化と脱リン酸化のサイクルが繰り返されることで、細胞は多様な情報を正確に伝達し、極めて多くの代謝プロセスを精密に制御しているのです。

この画期的な発見は、細胞機能調節の基本原理として、その後の生命科学研究に計り知れない影響を与えました。フィッシャー博士とクレープス博士は、この業績により1988年にパサノ賞を受賞し、そして1992年には科学者にとって最高の栄誉であるノーベル生理学・医学賞を受賞しました。また、2010年にはイギリスの王立協会の外国人会員にも選出されています。

ノーベル賞受賞後も、フィッシャー博士は精力的に研究活動を続け、様々な細胞における可逆的タンパク質リン酸化のさらなる解明に貢献しました。彼は晩年をシアトルで過ごし、2021年8月27日に101歳でその生涯を閉じました。彼の死去はリンダウ・ノーベル賞受賞者会議によって発表され、その時点まで存命していたノーベル賞受賞者の中で最も長命であったことが特筆されます。

エドモンド・H・フィッシャー博士の研究は、生物学におけるシグナル伝達研究の礎を築き、現代の医学・薬学研究にも深く根ざしています。彼の発見は、多くの疾患のメカニズム解明や新たな治療法の開発に不可欠な知見をもたらしました。彼の科学への献身と卓越した洞察力は、今なお多くの研究者に影響を与え続けています。

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