エリック・カンデル

エリック・リチャード・カンデル（Eric Richard Kandel, 1929年 - ）は、オーストリアに生まれ、後にアメリカ合衆国へ移住した著名な神経科学者です。彼の最も重要な功績は、神経系における情報伝達の仕組み、特に学習や記憶が脳内でどのように形成・保持されるかの分子・細胞レベルでのメカニズムを解明したことにあります。この画期的な研究が認められ、2000年にはノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

カンデルは現在、コロンビア大学で生化学の教授を務めています。彼の研究は、特に単純な神経系を持つ海洋軟体動物であるアメフラシ（Aplysia californica）をモデル生物として用いた実験に基づいています。アメフラシの比較的大きな神経細胞は、単一の細胞レベルでの変化を詳細に観察することを可能にしました。この研究を通じて、彼は神経細胞間の結合（シナプス）の強さが学習によって変化する可塑性の原理や、短期記憶と長期記憶が異なるメカニズムによって成立することを明らかにしました。

特に長期記憶の形成においては、遺伝子の発現を制御するタンパク質であるCREB分子が重要な役割を果たすことを発見しました。CREB分子の働きを阻害すると、シナプスの構造的な変化や新しいタンパク質の合成が起こらず、長期記憶が確立されないことを実験的に証明したのです。これは、記憶が単なる機能的な変化だけでなく、脳の物理的な構造変化にも裏打ちされていることを示唆する重要な発見でした。

カンデルのキャリアは、ウィーンでの幼少期に始まりました。ユダヤ系として生まれた彼は、1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合とその後のホロコーストを経験し、1939年に家族と共に米国へ逃れました。ハーバード大学に進学後、当初は精神分析医を目指していましたが、記憶と脳の機能に関わる手術の失敗事例を知ったことがきっかけとなり、脳の生物学的な研究へと方向転換しました。この関心が、後の画期的な神経科学研究へと繋がっていきます。

1980年代には、記憶研究において興味深い論争がありました。心理学者のエリザベス・ロフタスは、精神分析学で語られるような抑圧されたトラウマ記憶の存在に懐疑的な立場を取り、むしろ治療過程での暗示などによって偽の記憶（「思い出された嘘」）が作られる可能性を実験的に示しました。これに対しカンデルは、記憶の想起が特定の神経メカニズムによって抑制され得ることを実験で明らかにし、ジークムント・フロイトが提唱した無意識や抑圧といった概念の一部が、神経科学的な観点からも説明可能であることを示唆しました。彼の研究は、長らく隔絶されていた精神分析と神経科学を結びつける可能性を示唆するものとしても注目されています。

カンデルの研究は、現代社会においても大きな波紋を広げています。記憶の形成や消去に関わる分子メカニズムの理解が進むにつれて、記憶を操作する可能性のある薬剤や技術の開発が進められています。記憶力や学習能力を高める薬（記憶強化薬）や、心的外傷（トラウマ）に関わる不快な記憶を消去する薬（忘れ薬）などがその例です。しかし、こうした技術の実用化は、個人のアイデンティティや社会のあり方に根本的な問いを投げかけるものであり、深刻な倫理的議論を巻き起こしています。特に、特定の記憶を消去する技術が、医療目的以外に軍事、犯罪、政治的な文脈で悪用される可能性も指摘されており、その開発と応用には極めて慎重な姿勢が求められています。

彼の著作は神経科学分野で広く読まれています。特に『カンデル神経科学（Principles of Neural Science）』は、世界中の研究者や学生にとって不可欠な標準テキストとなっています。また、一般読者向けには、記憶の仕組みを分子レベルから解説した『記憶のしくみ（Memory: From Mind to Molecules）』や、脳科学と芸術・精神分析を結びつけた著作なども多数出版しており、科学の知見を広く伝える活動も行っています。

エリック・R・カンデルは、ノーベル賞以外にもアルバート・ラスカー基礎医学研究賞、ガードナー国際賞、アメリカ国家科学賞、ウルフ賞医学部門など、数多くの権威ある賞を受賞しており、神経科学分野における彼の卓越した貢献が世界的に認められています。彼の研究は、学習と記憶の生物学的基盤に関する理解を深め、神経科学の進歩に計り知れない影響を与えています。

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