ジュディス・リッチ・ハリス

ジュディス・リッチ・ハリス（Judith Rich Harris、1938年2月12日 - 2018年 12月29日）は、アメリカ合衆国の著名な心理学者です。特に、子の性格や発達における親の影響力に関する従来の定説に疑問を呈し、その考え方を覆す理論を提唱したことで知られています。彼女の代表的な著作である『子育ての大誤解』は、世界中で大きな議論を巻き起こしました。

経歴

ハリスの幼少期は、両親と共にアメリカ国内を転々と移り住む日々でした。一家が最終的にアリゾナ州タクソンに落ち着いた後、地元の高校を卒業。その後、アリゾナ大学とブランダイス大学で学び、1959年に優秀な成績で学士号を取得しました。さらに、1961年にはハーバード大学で心理学の修士号を取得しています。同年、チャールズ・S・ハリス氏と結婚し、二人の娘（うち一人は養子）をもうけました。現在は4人の孫がいます。1977年には、慢性的な自己免疫疾患である狼瘡と全身性強皮症と診断され、健康上の困難を抱えることとなります。

研究活動と著作

ハリスは1970年代後半、視覚情報処理に関する数学的なモデルを開発し、これが後に権威ある学術誌『Perception and Psychophysics』に掲載される二つの論文の基礎となりました。1981年以降は、発達心理学の教科書執筆に注力するようになります。1984年にはロバート・リーバート氏との共著で『The Child』を、1992年には『Infant and Child』を出版しました。

転機が訪れたのは1994年です。ハリスは、子どもの発達において家庭環境よりもむしろピアグループ、すなわち同年代の友人や仲間との関係がより重要な役割を果たすという、全く新しい理論を発表しました。この独創的な理論は、アメリカ心理学会から基礎心理学における傑出した著作として1995年のジョージ・ミラー賞を受賞した論文の基盤となりました。興味深いことに、その賞の名を冠するジョージ・ミラー氏は、1960年にハリスの「独創性や独立性がハーバードの基準に合わない」として、彼女を博士課程から除籍した当時の心理学部長でした。

『子育ての大誤解』（The Nurture Assumption）

ハリスの最も広く知られた業績は、1998年に発表された著書『子育ての大誤解』です。本書は、ハーバード大学の著名な心理学者スティーブン・ピンカー氏の推薦を受けて執筆され、ピンカー氏自身が序文を寄稿しています。この本の中で、ハリスは長年信じられてきた「人の人格は主に親の子育てによって形成される」という考え方に真っ向から異議を唱えました。

彼女は、親の影響を示すとされる多くの研究を詳細に検証し、それらの大半が遺伝的要因の影響を十分に考慮していないと指摘します。例えば、攻撃的な親から攻撃的な子どもが育ったとしても、それが必ずしも親の子育ての影響であるとは断定できないと主張します。なぜなら、子どもは親から攻撃性に関する遺伝子を受け継いでいる可能性があるからです。彼女は、養子と養父母の性格の相関はわずかであるのに対し、実の両親とはより顕著な相関が見られることなどを証拠として提示しました。

遺伝の役割は心理学の研究で完全に無視されていたわけではありませんが、一卵性双生児でも性格が完全に一致しないことから、遺伝だけでは全てを説明できません。従来の心理学者は、遺伝以外の要因を「親の養育環境」だと考えがちでした。しかし、多くの双生児研究は、家庭環境と個性の間に明確な相関を見出していません。同じ家で育った一卵性双生児と、離れて育った一卵性双生児の性格の差は同程度であり、また養子と養兄弟は、無関係な子どもたちと同程度にしか似ていないことが示唆されています。ハリスはまた、出生順が人格に与える影響についても懐疑的な立場を取り、「出生順効果は、注意深く見ようとすると消えてしまう目の端に映るもののようだ」と述べています。

ハリスの最も革新的な主張は、子どもを取り巻く環境として、家族の外、特にピアグループ（友人や仲間）に注目した点です。彼女は、子どもの人格形成においてピアグループが親以上に決定的な影響力を持つと提唱しました。例えば、移民の子どもは、親の母国語よりも、仲間が使う言葉やアクセントを自然に習得する傾向があることを例に挙げます。子どもたちは親よりも仲間集団との一体感を持ちやすく、その集団に適応するために自分の行動や振る舞いを変化させ、これが最終的に個人の人格を形作るというのです。

一方で、ハリスは『子育ての大誤解』が「両親は重要ではない」と主張しているわけではないことを明確にしています。また、深刻な児童虐待やネグレクトを容認・弁護するものでもありません。彼女は、特に子どもの幼少期において、親は子どもがどのような仲間集団と関わるかを選択する上で重要な役割を果たすことを認めています。そしてもちろん、両親は家庭環境や親子関係を通じて子どもに影響を与える側面も存在します。

『子育ての大誤解』は、出版と同時に様々な評価を受けました。スタンフォード大学の神経学者ロバート・サポルスキー氏のように、「堅牢な科学に基づいている」と高く評価する声や、スティーブン・ピンカー氏のように「心理学史の転換点となりうる」と予測する声もありました。しかし、批判的な意見も多く寄せられました。テンプル大学のフランク・ファーリー氏は「限られたデータに基づいた極端な主張であり、不条理だ」と述べ、カーネル大学のウェンディ・ウィリアムズ氏は「親が子どもの認知能力や行動に影響を与えられることを示す優れた研究は多数存在する」と反論しました。ハーバード大学のジェローム・ケイガン氏は、ハリスが「自著の結論と矛盾する重要な事実を無視している」と指摘しました。

一部の批判者は、ハリスが「育ち」（環境要因）という言葉を、従来の心理学で使われてきた「氏と育ち」論における定義とは異なる意味で用いていると指摘しました。これらの批判者は、「育ち」は親子関係だけでなく、子どもを取り巻くあらゆる環境的インプットを包含すべきだと主張しました。また、現代社会において、親が子どもと過ごす時間が相対的に少ない場合、他の要因（特に仲間集団）の影響力が大きくなる可能性も指摘されています。

ハリス自身は、自著が親のネグレクトや虐待を助長するという批判を強く否定しています。そして、子どもたちの人格を形成する望みがないとしても、「友人やパートナーに親切にするのと同じ理由で」、子どもたちにも良く接するべきだと主張しました。彼女は、「曾祖父母の時代には子育て神話は存在しなかったが、彼らは同じように子どもたちに親切だったはずだ」と語っています。

『No Two Alike』

2006年2月に出版された『No Two Alike: Human Nature and Human Individuality（同じものは二つと無い：人の本性と個性）』は、ハリスのもう一つの重要な著作です。この本では、なぜ一人ひとりの個性がこれほどまでに異なっているのか、そして同じ家庭で育った一卵性双生児でさえなぜ全く同じにならないのかという問いに挑んでいます。ハリスは、人間の個性を形成する主要な要因として、人間関係、社会化、そしてステータスという三つの異なるシステムを提案しました。この著作は、『子育ての大誤解』で展開されたアイデアのいくつかをさらに掘り下げると同時に、前著に対する批判への回答も試みています。

ジュディス・リッチ・ハリスの研究は、発達心理学における親の影響力という長年のテーマに新たな視点をもたらし、その後の議論に多大な影響を与えました。

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