スガナレル (戯曲)

『スガナレル:あるいは疑りぶかい亭主』

モリエールが1660年に書き上げた戯曲で、同年5月28日にパリのプチ・ブルボン劇場で初演されました。正式名称は『スガナレル:あるいは疑りぶかい亭主』（仏語原題：Sganarelle ou le Cocu imaginaire）といい、一幕物の短い作品です。

物語は、パリの商人ゴルジビュスの娘セリーを中心に展開します。セリーにはすでにレリーという恋人がいますが、父親であるゴルジビュスは財産を持つヴァレールとの結婚を強要します。かつてはレリーとの交際を勧めたゴルジビュスでしたが、より有利な縁談に心が動いてしまったのです。望まぬ結婚を強いられたセリーは嘆き悲しみ、レリーから贈られた肖像画を手に気を失ってしまいます。

セリーのばあやが助けを求めると、通りかかった商人のスガナレルがセリーを抱きかかえます。しかし、その様子をスガナレルの妻が見てしまい、夫の浮気だと勘違いします。一方、セリーが落とした肖像画を拾ったスガナレルの妻は、肖像画に描かれた美男子（レリー）に見惚れてしまいます。セリーを運び終えて戻ってきたスガナレルは、妻が肖像画にキスしているのを目撃し、妻が肖像画の男と恋仲にあると思い込みます。ここから、夫婦の間で互いの浮気を疑う、見当違いな口論が始まります。

旅から急ぎ戻ってきたレリーは、セリーが結婚すると聞き焦っていました。そこでスガナレルが肖像画を持っているのを見つけ、セリーが他の男（スガナレル）に肖像画を渡したと思い込み、セリーに裏切られたとショックを受けます。体調を崩したレリーは、親切なスガナレルの妻に介抱されます。これを見たスガナレルは、妻とレリーの関係を確信し、憤慨します。快復したレリーは、スガナレルをセリーの夫だと誤解したまま、「あんな美しい妻を持つとは幸せ者だ」と独り言をもらします。この言葉を聞いたスガナレルはさらに怒りを募らせますが、そこへ現れたセリーが事情を聞き、今度はセリーがレリーに裏切られたと勘違いします。セリーはスガナレルと共にレリーへの復讐を誓い、父親の言いつけ通りヴァレールと結婚することを決意します。

結婚前の最後の挨拶に来たレリーとセリーは、互いに誤解したまま口論になります。復讐のために駆けつけたスガナレル夫婦も加わり、混乱は深まるばかり。状況を理解できないばあやが仲裁に入り、話を聞き整理した結果、すべての騒動が肖像画の取り違えによる勘違いであったことが明らかになります。誤解が解け安心した一同ですが、セリーはヴァレールとの結婚を承諾してしまったことに焦ります。しかし、そこにヴァレールの父ヴィルブルキャンが現れ、息子には既に内縁の女性がいるため、セリーとの結婚は不可能になったと告げます。度重なる騒動に疲れたゴルジビュスは、ついにレリーの存在を認め、セリーとの結婚を許可するのでした。

この作品は、モリエールが『才女気取り』で成功を収めた翌年に書かれましたが、前作ほどの大ヒットとはなりませんでした。しかし、モリエール自身は本作に深い愛着を持っていたようで、1673年に亡くなるまで毎年のように上演し、その回数は生涯で120回にも及びました。一幕物としては異例なほど巧妙な構成を持ち、上演時間も1時間に満たないため、他の長編作品と組み合わせて上演されることが多かったようです。

『才女気取り』同様、本作も成功度は低かったものの、当時の著作権概念が曖昧だったために無断出版や模倣作が出回る事態となりました。モリエールはこうした不法行為に対し訴訟を起こしましたが、解決には時間を要しました。

作中に登場するゴルジビュスやスガナレル、ヴィルブルキャンといった人物名は、モリエールが南フランス巡業時代に作った初期の作品にも見られます。しかし、それらの作品では類型的な人物に過ぎなかったのに対し、本作では個性が与えられ、より生き生きと描かれています。特に主人公のスガナレルは、イタリア喜劇の影響を受けつつも、本作では非常に個性的な人物像として確立されており、彼の長い独白の中には、後にモリエールが完成させる優れた性格喜劇へと繋がる、人間の内面的な葛藤が素朴ながらも描かれています。

一枚の肖像画から始まる勘違いが連鎖し、騒動を経て、最後は笑いの中にすべてが収まるという構成は、一幕物でありながら多幕物のような巧みさを持っています。評論家の安堂信也は、本作の構成を高く評価し、ファルス（笑劇）から本格的な喜劇への転換期における重要な試みであり、3～5幕の長編喜劇への基礎を築いた作品だと指摘しています。

本作は日本語にも翻訳されており、いくつかの版が出版されています。また、草野柴二による『倉吉』という翻案も存在します。

『スガナレル:あるいは疑りぶかい亭主』は、モリエールのキャリアにおける重要な転換点を示す作品であり、彼の喜劇作法、特に巧みな構成と人物描写の進化を理解する上で見逃せない作品と言えるでしょう。

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