ダブリン市民

ジェイムズ・ジョイス初期の代表作である短編小説集。アイルランドの首都ダブリンを舞台に、市井の人々の生活、特にその内面や精神的な閉塞状態を全15編の物語を通じて描き出す。1914年にロンドンで出版された。

作品は、ダブリン社会の停滞と麻痺に対する鋭い分析として評価されている。ジョイス自身のアイルランドでの経験が創作の根幹を成しており、全ての著作の舞台や主題に影響を与えている。

本作の重要な要素として、ジョイスが独自に定義した「エピファニー」の概念が導入されている点が挙げられる。エピファニーとは、日常的な出来事や観察を通じて、物事の本質や「魂」が突如として顕現する瞬間を指す。この概念は、後の文学に「エピファニー文学」という流れを生むほど大きな影響を与えた。

出版に至るまでには長い道のりがあった。1905年にロンドンで出版を試みるが断られ、1909年にはダブリンの出版社と合意するも、内容への懸念などから3年後に解消される。最終的に、1906年に執筆された最も長い短編「死者たち」を追加し、1914年にロンドンのグラント・リチャーズ社から刊行された。

収録されている15編の物語は、子供時代、思春期、成熟期、そして公的な生活といった人生の各段階に対応しているとも解釈される。各作品はダブリン市民の多様な姿や経験を写実的に描いている。以下にその一部を挙げる。

姉妹 (The Sisters)：謎めいたフリン神父の死と、周囲の反応。
ある出会い (An Encounter)：冒険心から街を出た少年たちの、ある異様な出会い。
アラビー (Araby)：初恋の少年の、幻想と現実の乖離。
イーヴリン (Eveline)：現状からの脱出を試みるも、過去に囚われる若い女性。
レースのあとで (After the Race)：富裕層との交友を深めようとする大学生。
二人の伊達男 (Two Gallants)：金銭のために他人を利用する二人の男。
下宿屋 (The Boarding House)：娘の結婚を策略する母親。
小さな雲 (A Little Cloud)：旧友との再会が引き起こす、抑圧された感情の爆発。
対応 (Counterparts)：仕事や私生活のフラストレーションを暴力で発散する男。
土 (Clay)：ハロウィーンの夜に描かれる、孤独ながらも穏やかな時間。
痛ましい事故 (A Painful Case)：自らの選択が招いた他者の悲劇を知る男。
委員会室の蔦の日 (Ivy Day in the Committee Room)：政治家の集まりにおける駆け引きと追憶。
母親 (A Mother)：娘の音楽キャリアに固執する母親。
恩寵 (Grace)：怪我をした男をカトリック信仰へ導こうとする友人たち。
* 死者たち (The Dead)：夜会を舞台に、夫婦間の内的な隔たりが露呈する。

中でも最後に収められた「死者たち」は最も著名で、独立した中編としても読める長さを持つ。この作品は、1987年に映画化（ジョン・ヒューストン監督の遺作）され、2000年にはミュージカル化されるなど、メディアミックスも行われている。

文学的な価値が高く評価されており、多くの大学で英文学の教材として採用されている。日本語訳も多数出版されており、様々な訳文で読むことができる。

もう一度検索