パターソン (映画)

ジム・ジャームッシュ監督が手掛けた2016年の映画『パターソン』（原題：Paterson）は、主演にアダム・ドライバーとゴルシフテ・ファラハニを迎え、日々の暮らしの中にある美しさや発見を静かに描き出した作品です。第69回カンヌ国際映画祭のオフィシャルコンペティション部門に出品され、世界的に注目されました。

物語の舞台は、アメリカ合衆国ニュージャージー州の同名の都市、パターソン。主人公は、この街でバスの運転手として働く一人の男性、彼の名もまたパターソン（アダム・ドライバー）です。彼は毎日決まったルートを走行しながら乗客たちの他愛ない会話に耳を傾け、心に浮かんだ言葉やフレーズを秘密の詩として小さなノートに書き留めることを何よりの楽しみとしています。

パターソンは、愛する妻ローラ（ゴルシフテ・ファラハニ）と古い一軒家で暮らしています。彼にとって、華やかさとは無縁のこの平凡な日常こそが、かけがえのないものです。朝起きて隣で眠る妻の顔を見つめ、シリアルを食べ、仕事に出かけ、夜は忠実な愛犬マーヴィンを連れて散歩に出かけ、途中のバーでビールを一杯飲む。この繰り返しの中に、彼は確かな幸福を見出しています。
妻のローラは対照的に、常に新しいことに挑戦する情熱的な女性です。ギターを習い始めたり、手作りのカップケーキをインターネットや市場で販売したりと、その活動は多岐にわたります。彼女の奔放なエネルギーを、パターソンはいつも温かく見守り、妻への愛情と感謝を深めていきます。

そんな静かで満ち足りた日常に、小さな波紋が広がります。ある夜、夫婦で映画を観に出かけ帰宅すると、愛犬マーヴィンのいたずらによって、パターソンが長年書き溜めてきた詩のノートが無惨にも引き裂かれてしまっています。彼にとって人生そのものとも言えるノートを失った喪失感に打ちひしがれるパターソン。翌日の休日もそのショックから立ち直れずに一人散歩に出かける彼に、思いがけない出会いが訪れます。公園のベンチで出会ったのは、日本からパターソン市を訪れた一人の男性（永瀬正敏）。彼もまたパターソン出身の詩人を敬愛しており、二人は詩について語り合います。別れ際、その男性はパターソンに一冊の新しいノートをプレゼントし、「白紙のページには無限の可能性が広がっている」と励ましの言葉を残します。この出会いを経て、パターソンは再びペンを手に取り、新しい日常へと踏み出していくのです。彼の詩作は、失われたものを嘆くのではなく、新たな可能性を見出すための営みへと変わります。

主演のアダム・ドライバーは、抑制された演技の中に主人公の豊かな内面を表現し、高く評価されました（ロサンゼルス・トロント映画批評家協会賞最優秀男優賞受賞）。妻ローラ役のゴルシフテ・ファラハニは、その活き活きとした存在感で物語に彩りを与えています。永瀬正敏が演じた日本人詩人も、物語の転換点となる重要な役割を果たしています。監督・脚本はジム・ジャームッシュ自身が手掛け、美術はマーク・フリードバーグ、撮影はフレデリック・エルムズが担当。独特の映像美と静謐な空気感を作り出しています。音楽は監督も参加するユニットSqürlが担当し、作品の世界観を深めています。

本作は、ドラマチックな展開や派手な演出を排し、取るに足らないような日常の断片を丁寧に積み重ねていくことで、観る者に詩情豊かな感動をもたらします。バスからの車窓風景、人々の会話、公園での出会い、自宅での夫婦のやり取りなど、一つ一つのシーンがまるで一篇の詩のように紡がれていきます。主人公パターソンの視点を通して、ありふれた毎日の中に隠された美しさや、創造性の源泉が静かに提示されます。バスの運転シーンの撮影には、俳優が運転しているように見せるためにバス自体をトラックで牽引するという手法が用いられており、リアルな日常描写へのこだわりが見られます。

『パターソン』は、大きな事件は起こらないものの、主人公とその妻、そして街の人々の間に流れる穏やかな時間や、詩という形で表現される内なる世界を描き出すことで、私たち自身の日常を見つめ直すきっかけを与えてくれる作品です。平凡さの中にこそ存在する輝きを、静かに、しかし力強く提示する、ジム・ジャームッシュの円熟した手腕が光る一作と言えるでしょう。

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