ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス

ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス：レンブラントの深遠な寓意

レンブラント・ファン・レインによる「ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス」(1653年)は、17世紀オランダ絵画の最高峰の一つとして名高い作品です。この絵画は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが、叙事詩人ホメロスの胸像に静かに手を置いている様子を描いています。一見シンプルな構図ながら、そこに込められた寓意は深遠で、見る者を魅了してやみません。

制作の背景と依頼主

この絵画は、シチリアの貴族、アントニオ・ルッフォの依頼によって制作されました。ルッフォは、イタリアを中心とした膨大な美術コレクションを所有しており、その中にはイタリア・バロック絵画やルネサンス絵画だけでなく、北方絵画も含まれていました。主題の選択はレンブラントに委ねられ、完成した作品は1654年にシチリアのメッシーナに到着しています。初期の記録では、描かれている人物がアリストテレスかアルベルトゥス・マグヌスか曖昧な記述が見られますが、現在ではアリストテレスであるとされています。

アリストテレスの深い思索と憂鬱

絵画におけるアリストテレスは、血色の悪い顔と疲れた眼差しで、深い悲しみを湛えています。これは、アリストテレス自身の「憂鬱(メランコリア)」に関する思想と深く関連しています。アリストテレスは、憂鬱を、知り得ぬことを深く考える人間特有の精神状態と捉えていました。ルネサンス期の哲学者たちは、この憂鬱を黒胆汁の過剰に起因する気質と説明しており、レンブラントもこの思想に何らかの形で触れていた可能性があります。アリストテレスのこの憂鬱な表情は、デューラーの版画「メランコリアI」や、17世紀に流行した憂鬱な雰囲気の肖像画にも通じるものがあります。

精神と物質、相反する価値観の葛藤

レンブラントは、アリストテレスの憂鬱の特殊な理由を暗示しています。アリストテレスは、ホメロスの胸像が象徴する精神的世界と、彼自身の胸元にあるアレクサンドロス大王の肖像付き金鎖が象徴する物質的世界との間で葛藤しているのです。この金鎖は、アレクサンドロス大王からアリストテレスへの恩賞であり、精神的価値と世俗的価値の緊張関係を示しています。この葛藤は、アリストテレスの時代だけでなく、17世紀のレンブラント自身も直面していた問題であったと考えられます。レンブラント自身も、芸術家としての精神性と世俗世界の要求との間で葛藤を抱えていた可能性が高いのです。実際、絵画に描かれているホメロスの胸像は、レンブラント自身の所有物であったと言われています。

レンブラントの卓越した技法

レンブラントは、この絵画において、ヴェネツィア派の伝統を巧みに取り入れています。特に、ティツィアーノの晩年の様式、大胆な筆致と、黄、赤、白、黒といった限定された色彩の使用は、彼のオマージュと言えるでしょう。遠目には輝かしい一体感を見せ、近づくと色彩の中に溶け込むような筆触は、レンブラントの卓越した技法を示しています。アリストテレスの衣服の質感や、金鎖の輝きなどは、この大胆かつ精密な筆致によって見事に表現されています。また、アリストテレスの顔は、より滑らかな筆致で描かれ、生き生きとした表情を与えられています。この「粗い仕上げ」は、レンブラントがティツィアーノを強く意識していたことを示唆しています。

結語

「ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス」は、単なる肖像画ではなく、アリストテレスの深い思索、精神と物質の葛藤、そしてレンブラント自身の芸術家としての苦悩までもが凝縮された、深遠な寓意画です。その重厚な筆致、奥深い色彩、そして寓意に満ちた主題は、見る者に永く記憶に残る強い印象を与えます。この絵画は、1961年にメトロポリタン美術館が当時最高額で買い取ったことで、世界的な注目を集め、レンブラントの最高傑作の一つとして評価されています。

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