ワグネリズム

ワグネリズム（Wagnerism） は、広範な概念を内包する言葉であり、主に19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーに関連する様々な思想、芸術観、そしてそれらを支持する運動を指す美学用語または政治用語として用いられます。特にフランス語圏の発音に由来する「ワグネリスム（ヴァグネリスム）」という表記が使われることもあります。

ワグネリズムの中心には、ワーグナー自身が積極的に推進した独自の哲学的理念があります。これらは大きく二つの側面から捉えることができます。一つは美学的な概念の追求であり、音楽、演劇、美術などを融合させた究極の芸術形式としての「総合芸術（Gesamtkunstwerk）」の提唱、伝統的なオペラの革新を目指した「楽劇（Musikdrama）」への改革、そして芸術そのものを宗教的な体験へと昇華させようとする「芸術宗教」といった考え方が含まれます。ワーグナーは、これらの理念を通じて、従来の芸術のあり方を根底から変革しようと試みました。

もう一つは社会的、政治的な側面です。彼の思想には、「真にドイツ的なるもの」という独自のナショナリズム的な観念や、悲劇的かつ有害な「反ユダヤ主義（Antisemitismus）」といった思想がその代表例です。ワーグナーの著作や言動には、これらの多岐にわたる思想が複雑に絡み合って示されており、後の歴史に大きな影響を与えることになります。

ワグネリズムはまた、ワーグナーの音楽そのものに対する強い支持や愛着の姿勢をも意味します。単なる敬愛に留まらず、時には熱狂的でファナティックな信奉へと発展することもありました。このようなワーグナーの音楽や思想の崇拝者、またはその信奉者は「ワグネリアン（ヴァグネリアン）」と呼ばれました。ワグネリアンは、ワーグナーの母国であるドイツ語圏に留まらず、フランスやイギリスといったヨーロッパ各地、さらには大西洋を越えた地域にも存在しました。彼らの影響力は、音楽界にとどまらず、文学、演劇、絵画など、様々な芸術分野に広く波及し、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ文化潮流に大きな足跡を残しました。ワーグナー作品の公演は、単なる音楽イベントを超え、熱狂的な信奉者が集う特別な場となることも少なくありませんでした。

ワグネリズムが持つ多面性、特に「真にドイツ的なるもの」といった政治的な思想側面は、後に歴史的な悲劇と結びつくことになります。20世紀に入り、特にドイツ第三帝国期において、ワグナーの思想はナチスによって、その政治的なプロパガンダのために意図的に、そして著しく歪曲された形で推奨されました。ワーグナーの反ユダヤ主義やドイツ的ナショナリズムの思想が、ナチスの排他的なイデオロギーを正当化するために悪用された歴史は、ワグネリズムの負の側面として深く刻まれています。この時代におけるワグネリズムの扱いは、その後のワーグナー評価にも複雑な影を落としています。

ワーグナーに関する思想や運動とは全く異なる意味で「ワグネリズム」という言葉が用いられる場合もあります。これは、20世紀初頭のアメリカ合衆国やカナダにおいて成立した、労働者の団結権などを保障するための労組法案、通称「ワグナー法（Wagner Act）」に関連する概念を指す場合です。この法案は、その提案者であるロバート・F・ワグナー上院議員にちなんで名付けられており、リヒャルト・ワーグナーとは無関係です。しかし、名称が同じであることから、文脈によっては混同される可能性もあります。

結論として、ワグネリズムは、一人の偉大な芸術家リヒャルト・ワーグナーが生み出し、あるいは彼に帰せられた、美学、芸術、社会、政治、そして人間の熱狂といった、多様かつ時には矛盾をはらむ概念が複雑に絡み合った、極めて多層的な現象であると言えます。その魅力と危険性、そして歴史的な影響力は、現代においてもなお活発な議論の対象となっています。

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