ヴィーナスとアドニス (ルーベンス、1635年)

ルーベンスの「ヴィーナスとアドニス」

ピーテル・パウル・ルーベンスによる「ヴィーナスとアドニス」は、バロック美術の巨匠が晩年に手がけた傑作です。この作品は、オウィディウスの『変身物語』に登場する悲劇的な恋物語を題材に、ヴィーナスが愛するアドニスを狩猟から引き留めようとする瞬間を描いています。ルーベンスは、その卓越した画力と劇的な表現力によって、この神話の一場面を生き生きと蘇らせました。

作品の詳細

本作は、ルーベンスが1635年頃に制作した油彩画で、現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されています。この作品は、ルーベンスが自身の初期の作品や、ティツィアーノによる同主題の作品からインスピレーションを得て描かれたものです。特にティツィアーノの「ヴィーナスとアドニス」は、ルーベンスの作品に大きな影響を与えたと考えられています。

画面には、キューピッドを伴ったヴィーナスが、狩猟に出ようとするアドニスを抱き寄せ、引き留めようとする姿が描かれています。ルーベンスは、劇的な色彩、細部へのこだわり、そして光と影の強い対比を用いることで、場面の情感を豊かに表現しています。アドニスの身体は細部まで写実的に描かれ、彼の筋肉や、振り向く際の脊柱の動きが強調されています。また、ヴィーナスの白い肌とアドニスの日焼けした肌との対比、そして、ヴィーナスの身体を照らす光と影の表現は、ルーベンスのバロック的なスタイルを際立たせています。

アドニスは、明るい赤色の衣服を身に着けており、これは彼の血で染まる花を予見させるかのようです。彼は、ヴィーナスの方を見ながらも、その視線はどこか遠くを見つめているようであり、彼の心が狩猟と冒険に向かっていることを暗示しています。一方、ヴィーナスは、アドニスの死を予感し、苦悩と悲しみを表情に浮かべています。彼女はアドニスにしがみつき、彼を必死に引き留めようとしていますが、その切ない願いは届きません。ヴィーナスの姿は、ルーベンスの妻であるエレーヌ・フールマンがモデルになったとされています。

キューピッドは、ヴィーナスの横で、アドニスの足にしがみついています。これは、母であるヴィーナスが、キューピッドの矢によって恋に落ちたことを示唆しています。地面には、キューピッドの矢が落ちており、この恋物語の発端を物語っています。背景には、アドニスの猟犬が描かれていますが、彼らは迫りくる悲劇に気づいていません。背景の暗い色調と、前景の人物像の明るさのコントラストは、場面の劇的な効果をさらに高めています。

ルーベンスの芸術的背景

ピーテル・パウル・ルーベンスは、1577年にジーゲンで生まれ、バロック期を代表するフランドルの画家です。彼は、イタリアを旅し、盛期ルネサンスやバロックの巨匠たちの作品に触れることで、自身の芸術スタイルを確立しました。特に、ティツィアーノの作品は、ルーベンスに大きな影響を与え、彼の作品には、ティツィアーノの色彩感覚や、ドラマティックな表現が色濃く反映されています。ルーベンスは、ゴンザーガ家の庇護を受け、ヨーロッパ各地を旅し、その経験が彼の芸術を豊かにしました。

作品の歴史

この作品は、大きな邸宅を飾るために制作されたと考えられています。絵画に関する最初の記録は、1706年のバイエルン選帝侯のコレクション目録に登場します。その後、この絵は神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世を経て、初代マールバラ公ジョン・チャーチルの手に渡り、ブレナム宮殿に飾られました。1920年以降、ハリー・ペイン・ビングハムによってメトロポリタン美術館に寄託され、1937年に同美術館に寄贈されました。その後、大掛かりな修復作業が行われ、ルーベンスが描いた当初の姿を取り戻しました。

作品の解釈

ルーベンスの「ヴィーナスとアドニス」は、愛と死、そして人間の運命という普遍的なテーマを扱っています。ヴィーナスの悲痛な表情と、アドニスの心を捉えられない視線は、悲劇的な結末を暗示しています。ルーベンスは、この物語を、彼の得意とする躍動感あふれる筆致と、鮮やかな色彩によって、見事に描き出しています。この作品は、ルーベンスの芸術的才能を示すと同時に、バロック美術の豊かな表現力を体現する傑作として、今日でも多くの人々を魅了し続けています。

参考資料

Joyce, Hetty. “Grasping at Shadows: Ancient Paintings in Renaissance and Baroque Rome.” Art Bulletin 74, no. 2 (1992): 219.
Scribner, Charles. Peter Paul Rubens. Masters of Art Series. New York: Abrams, 1989.
“Venus and Adonis.” The Met's Heilbrunn Timeline of Art History. Accessed October 1, 2018. https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437535.
Vlieghe, Hans. 2003 "Rubens, Peter Paul." Grove Art Online. 4 Dec. 2018. http://www.oxfordartonline.com/groveart/view/10.1093/gao/9781884446054.001.0001/oao-9781884446054-e-7000074324.
Wehle, Harry B. "Venus and Adonis by Rubens." The Metropolitan Museum of Art Bulletin 33, no. 9 (1938): 193–196.

外部リンク

メトロポリタン美術館公式サイト、ピーテル・パウル・ルーベンス『ヴィーナスとアドニス』 (英語)
* Web Gallery of Artサイト、ピーテル・パウル・ルーベンス『ヴィーナスとアドニス』 (英語)

もう一度検索