前坊

源氏物語の謎めいた人物「前坊」

源氏物語に登場する「前坊」は、物語を理解する上で重要な、かつ謎めいた人物です。本文中では既に故人としてのみ登場しますが、その存在は物語に複雑な陰影を投げかけています。

「前坊」とは何か

「前坊」を理解するには、まず「坊」の意味を知る必要があります。「坊」は皇太子、つまり東宮や春宮を指します。従って「前坊」は過去の皇太子を意味しますが、単なる過去の皇太子ではなく、帝位に就くことなく亡くなった、もしくは廃位された皇太子であることを示唆しています。「先坊」も同様の意味を持ちます。

源氏物語における「前坊」

源氏物語において「前坊」は、六条御息所の夫であり、秋好中宮の父として固有名詞的に用いられています。物語では、光源氏の父である桐壺帝の同母弟であるとされています。

矛盾する記述：桐壺巻と賢木巻

しかし、物語の記述には矛盾が存在します。賢木巻では、六条御息所の年齢と経歴について詳細な記述があり、そこから推測される前坊の没年と、桐壺巻における光源氏の誕生や朱雀帝の立坊に関する記述が一致しません。

賢木巻によると、六条御息所は16歳で東宮妃となり、20歳で夫と死別、物語の時点では30歳となっています。娘である秋好中宮は14歳です。一方、桐壺巻では、光源氏が4歳の時に光源氏の兄である朱雀帝が立坊したと記されています。葵巻では光源氏が22歳の時に桐壺帝の譲位と朱雀帝の即位があったことが記されており、この記述から、朱雀帝が立坊してから桐壺帝の譲位まで、朱雀帝は一貫して東宮であったと推測されます。

この矛盾から、様々な解釈が提示されています。

年齢の誤り説: 賢木巻の年齢記述は、物語全体の時系列と整合しないため、作者が10年単位の誤りを犯したという説。この説によると、六条御息所は光源氏より17歳年上となり、物語における10年単位の主題設定との関連性が指摘されます。
作者のミス説: 作者が賢木巻執筆時に朱雀帝の存在を忘れていたという説。単純なミスによる矛盾と考える立場です。
複数のケアレスミス説: 明石の御方や匂宮・薫の年齢に関する矛盾と同様に、作者のケアレスミスの一つとする説。
一度東宮を退いた説: 六条御息所が嫁いだ時点で東宮であった人物が、何らかの理由で東宮を退き「先坊」と呼ばれていたという説。
政治的圧力説: 前坊が政治的圧力により失脚し辞任したという説。
前坊が立坊した説: 桐壺巻で立坊したのは朱雀帝ではなく前坊だったという説。
時系列の不整合説: 源氏物語は、登場人物の年齢や出来事の期間について厳密な整合性を保っていないという説。
人物設定の未完成説: 桐壺巻執筆時点では、前坊や六条御息所、秋好中宮といった人物像はまだ完全に構想されていなかったという説。
文学的修辞説: 賢木巻の年齢記述は、具体的な年齢ではなく文学的修辞であるという説。
特別な称号説: 前坊は死去または廃位されたものの、桐壺帝の特別な配慮で「前坊」や「御息所」といった称号を許されていたという説。

「前坊」が登場する巻

「前坊」は物語の中で既に故人として言及されますが、葵巻、賢木巻、野分巻、若菜上巻で「故宮」「故前坊」「父宮」などと呼ばれています。

まとめ

「前坊」は、源氏物語における謎めいた人物であり、その存在は物語に深みを与えています。記述の矛盾は、作者の意図的なものか、それとも単純なミスなのか、様々な解釈が可能です。これらの解釈を通して、物語の奥深さや、作者の創作過程について考察することができます。 物語の解釈は読者それぞれに委ねられており、その多様な解釈こそが源氏物語の魅力の一つと言えるでしょう。

もう一度検索