唯脳論

概要

養老孟司氏が提唱した思想、および氏によって著された同名の書籍です。1989年10月に青土社から刊行されました。本書は、その後社会現象ともなった「脳内革命」「右脳ブーム」「脳トレーニング」といった、いわゆる「脳ブーム」の先駆けとなった代表的な著作の一つとして広く知られています。

思想の核心

唯脳論の中核を成す考え方は、人間の文化、伝統、社会制度といった広範な社会の仕組みから、言語、意識、心といった個人的かつ内的な精神活動に至るまで、そのあらゆる営みが脳という物理的な器官の構造と密接に対応している、という点にあります。これは、単に人間の行動や思考が脳によって制御されているという一般的な理解を超え、人間の存在様式そのものが脳の構造によって深く規定されていると示唆するものです。

単純な脳一元論との違い

しかしながら、唯脳論は、脳が世界のすべてを創造している、あるいは人間のすべてを脳に単純に還元できるとするような還元主義的、あるいは観念論的な脳一元論とは明確に区別されます。養老氏は、脳が直接的に「心を作り出す」というよりも、「脳という特定の『構造』が、心と呼ばれる『機能』と対応関係にある」と捉えることの重要性を強調します。構造と機能という次元の異なる概念間に対応関係を見出すという視点こそが、唯脳論の独自性と言えます。さらに重要なのは、この構造と機能という区別そのものを行っているのが、まさに人間の脳自身の働きであると指摘している点です。つまり、脳は外界や自己を認識する際に、無意識のうちに「構造」と「機能」というフレームワークを用いているのであり、唯脳論はその脳の働き方を内省的に考察する試みであるとも言えます。

人工物と脳化社会

唯脳論は、人間が作り出す人工物の世界についても独自の視点を提供します。養老氏は、人類が生み出すあらゆる人工物の仕組みは、根本的には脳の仕組みを外部に投影したものに他ならないと論じます。例えば、コンピュータのアーキテクチャやネットワーク構造、さらには社会制度の設計に至るまで、人間の脳が持つ論理構造や情報処理プロセスが反映されていると考えるのです。

人間は、自らの意のままにならない予測不能な自然の力や環境から解放されることを求め、人工物によって世界を改変し、覆い尽くそうとします。このような人間の営みによって構築された、人工物と人工的なシステムに覆われた世界を、養老氏は「脳化社会」と名付けました。脳化社会とは、自然との直接的な関わりが希薄になり、すべてが人間の脳（あるいはそれを模倣したシステム）の論理や構造を通して再構成された世界であると定義されます。

脳化社会の特徴

脳化社会の主な特徴として、以下の点が挙げられます。

人工空間の成立: 自然の地形や環境に依存せず、人間の都合に合わせて設計・構築された物理的な空間が増大します。都市部における直線的な道路や人工的な建物、区画整理された土地などがその例です。これは、脳が情報を整理し、カテゴリー化し、論理的な構造を作り出す働きが、そのまま外部空間に投影された結果と見なせます。
仮想空間の成立: 現実世界とは異なる、情報や記号によって構築された非物理的な空間が出現し、重要性を増します。インターネット上の情報空間、デジタルネットワーク、シミュレーションなどがこれに該当します。脳内での思考やイメージが、外部の技術によって具現化された空間であり、自然の物理法則から切り離された論理と規則によって支配されます。
* 自然の排除: 人工空間や仮想空間の拡大に伴い、多様で複雑な自然環境が生活圏から排除されたり、人間の管理下に置かれたりします。不確実性や予測不可能性を持つ自然は、脳の論理的な構造化や制御の対象となりにくいため、意図的あるいは無意識のうちに排除される傾向があります。これは、脳が秩序や規則性を求める性質の表れとも解釈できます。

唯脳論は、これらの特徴を持つ脳化社会が進行するにつれて、人間が本来持つ身体性や自然との繋がりが失われ、特定の脳機能（例えば、論理的思考や情報処理）に偏った人間像が形成される可能性に対する警鐘を含んでいます。脳の働きを深く考察することで、現代社会が抱える問題の根源を探ろうとする試みであると言えるでしょう。

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