夢遊の人々

ヘルマン・ブロッホの長編小説『夢遊の人々』：価値観の崩壊と小説形式の変容

ヘルマン・ブロッホの代表作『夢遊の人々』（Die Schlafwandler）は、20世紀初頭のドイツ社会の激動と、それに伴う価値観の崩壊を鮮やかに描いた長編小説です。三部作からなり、それぞれ1888年、1903年、1918年のドイツを舞台に、異なる文体、異なる視点で物語が展開されます。しばしばロベルト・ムジールの『特性のない男』と比較される、20世紀前半のオーストリアで生まれた全体小説（roman total）の代表作の一つとして知られています。

第一部「1888年 パーゼノウまたはロマン主義」では、帝政時代のベルリンとマルク・ブランデンブルクが舞台となります。地主階級出身の青年将校パーゼノウの、伝統的な結婚と禁断の情事との葛藤が、19世紀的なリアリズムの文体で描かれています。この部分は、伝統的な小説の様式を踏襲しており、読者は時代背景や登場人物の心情を比較的容易に理解できるでしょう。しかし、この伝統的な表現方法は、後の部分へと続く物語の劇的な変化を際立たせる役割も担っています。

第二部「1903年 エッシュまたは無政府主義」は、舞台を20世紀初頭の工業都市ケルンに移します。主人公はホテルマンを解雇されたエッシュ。第一部とは対照的に、エッシュの体験や思考は、リアリズムを超えた夢幻的で混沌とした文体で表現されます。この部分では、急速な工業化と都市化、それに伴う社会不安や個人のアイデンティティの喪失といったテーマが、不安定で断片的な描写を通して暗示的に表現されていると言えるでしょう。読者は、エッシュの精神状態を反映した、不穏で不確かな世界の描写に引き込まれていきます。

第三部「1918年 ユグノオまたは即物主義」では、小説の形式そのものが解体されます。第一次世界大戦後のドイツを舞台に、脱走兵ユグノオの物語を中心としながら、断章形式で複数の挿話、対話、論考が並列的に提示されます。ルポルタージュ的な文体も取り入れられ、従来の小説の枠組みを超えた表現が試みられています。この部分は、戦争による社会の崩壊と、個人の孤立、無力感を強烈に表現しています。読者は、散り散りになった断片から、混乱と不安に満ちた時代、そして人間の存在の脆さを認識することになるでしょう。

『夢遊の人々』全編を通して、ブロッホは「価値崩壊」というテーマを追求しています。これは、伝統的な価値観や社会秩序が崩壊していく過程、そして人々がそれにどう対応していくのかを描いたものです。この「価値崩壊」という思想は、ブロッホの後の著作、『ホーフマンスタールとその時代』や『群集の心理』にも深く関わっており、彼の思想体系を理解する上で重要な鍵となります。

『夢遊の人々』は、単なる歴史小説ではありません。20世紀という激動の時代を背景に、人間の精神、社会、そして小説という表現形式そのものの可能性を探求した、実験的で挑戦的な作品と言えるでしょう。その複雑で多層的な構造、そして斬新な表現方法は、現代においても多くの読者を魅了し続けています。

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