天稚彦草子

天稚彦草子（あめのわかひこそうし）

室町時代を中心に成立した物語群である御伽草子に属する一編で、日本の七夕物語の源流の一つとも考えられる説話です。物語の主役となるのは、後の七夕伝説における彦星に相当する存在である天稚彦と、織姫に相当する長者の末娘です。

あらすじ

物語は、美しい三人の娘を持つ裕福な長者のもとに、ある日一匹の恐ろしい大蛇が現れる場面から始まります。大蛇は長者に対し、娘を嫁に差し出さなければ命を取ると脅迫します。長者が娘たちにこの事態を伝えると、上の二人は恐怖から拒絶しますが、心優しい末娘だけが犠牲になることを受け入れます。長者は最も可愛がっていた末娘との別れを悲しみながらも、大蛇が指定した場所へと送り出します。

指定の場所で震えながら待つ末娘のもとに現れた大蛇は、意外なことに自分の頭を切るように命じます。言われるままに、末娘が持っていた爪切りで大蛇の頭を切り落とすと、大蛇はまばゆいばかりの美しい若者の姿に変わりました。その若者こそ、天界から来た天稚彦だったのです。大蛇が頭を切ることを求めたのは、娘の結婚への決意を試すものであり、娘の覚悟が幸せな結末へと繋がったのでした。

天稚彦と結ばれた末娘は、楽しい日々を送ります。しかし、ある時天稚彦は天界での用事を済ませるために一時的に地上を離れることになります。彼は娘に対し、開けてはならないと言い聞かせながら一つの唐櫃を渡し、天へ旅立ちました。地上に残された末娘の裕福な暮らしを妬んだ姉たちが、ある日家に押しかけ、妹の体をくすぐって鍵を奪い取り、無理やり唐櫃を開けてしまいます。やがて天稚彦が約束の期日を過ぎても戻らないことに気づいた末娘は、彼を探して自らも天界へと旅立つことを決意します。二度と地上の親元へは戻れないかもしれないという悲しみを胸に抱きながらも、娘は天稚彦に逢うため、天へ昇ります。

天界に辿り着いた末娘は、ゆうづつ（宵の明星）、箒星、昴（すばる）といった星々から天稚彦の居場所を聞き、ついに愛しい人との再会を果たします。天稚彦は娘の訪問を心から喜び迎え入れますが、実は彼の父親は人間を忌み嫌う恐ろしい鬼でした。鬼である父が人間の娘を嫁として認めるはずがありませんでしたが、娘は「どのような状況でも受け入れましょう」と覚悟を伝えます。

それから数日後、天稚彦の父鬼が二人のもとへやって来る気配を感じた天稚彦は、とっさに術を使い、娘を脇息（肘掛け）に変身させてしまいます。父鬼は人間の娘の存在には気づきませんでしたが、「人の匂いがする」と言い残して立ち去りました。その後も父鬼は度々訪れるようになり、その度に天稚彦は娘を扇子や枕など様々な無生物に変えて父の目を欺きます。しかし、ある日の昼寝中にうっかり娘を見つけられてしまいます。

娘の存在を知った父鬼は、百足（むかで）がうごめく蔵の中で一晩過ごすことなど、次々と難題を突きつけます。しかし娘は、天稚彦から授けられた袖を取り出し、「天稚彦の袖よ」と唱えながら振ると、百足は娘を刺すことなく退散しました。その後も父鬼が出す難題を、娘はすべて天稚彦の袖の力で乗り越えていきます。ついに娘の賢さと愛情を認めた父鬼は、二人が月に一度だけ会うことを許しますが、娘はそれを「年に一度」と聞き間違えてしまいます。父鬼は娘の聞き間違いを受け入れ、「それでは年に一度だ」と告げ、瓜を地面に打ち付けました。するとそこには大きな川が現れ、天の川となったのです。こうして、天稚彦と末娘は年に一度、7月7日の晩に限り、天の川を隔てて逢瀬を楽しむことができるようになったのでした。

変身の描写

この物語では、主要な登場人物である天稚彦と長者の末娘、双方に変身の描写が見られる点が特徴的です。

天稚彦の変身

天稚彦は物語の冒頭で、娘の決断を促す存在として恐ろしい大蛇の姿で現れます。末娘が指示通りに蛇の頭を切ることで、彼は本来の美しい男性の姿へと変身します。これは、娘の勇気と決断が、恐怖や困難を乗り越え、幸福な現実を引き寄せる鍵となったことを象徴しています。

娘の変身

長者の末娘は人間ですが、天界で父鬼から隠れるため、天稚彦の術によって様々な無生物に変えられます。作中では脇息、扇子、枕などが挙げられており、これら以外にも変身したことが示唆されています。娘が変身させられる対象は全て無生物であり、これは古事記のヤマタノオロチ神話において、スサノオが犠牲となるはずだったクシナダヒメを櫛に変身させて難を避けた説話と共通するモチーフが見られます。どちらもヒロインを異形の姿に変えて隠すことで、危機を回避するという構造を持っています。

特に、娘が脇息に変身させられた場面の描写は印象的です。天稚彦が娘を脇息に変え、それを自身または父鬼が使用するという状況が描かれており、この際の天稚彦や脇息となった娘の心情については、複数の解釈が可能です。脇息に変えられながら父鬼の傍に置かれるという状況は、娘にとって筆舌に尽くしがたい試練であったと想像されます。

このように「天稚彦草子」は、七夕伝説の要素を取り入れつつ、変身譚という側面も持つ興味深い物語であり、日本の説話文学における豊かな想像力の一端を示す作品と言えるでしょう。

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