山椒魚 (小説)

『山椒魚』は、井伏鱒二の代表的な短編小説であり、彼の文学的なキャリアの中で重要な位置を占めています。この物語は、ある山椒魚が成長しすぎたために、自分の住処である岩屋から出られなくなってしまうという、一見すると単純な状況設定から始まります。

あらすじ

物語の中心となるのは、谷川の岩屋に住む一匹の山椒魚です。彼は二年の間、その岩屋で過ごすうちに体が大きくなり、岩屋の出入り口に頭がつっかえて外に出られなくなってしまいます。その結果、狭い岩屋の中で身動きが取れなくなり、彼は焦燥感や絶望感に苛まれることになります。

山椒魚は、外の世界を恋しく思い、岩屋から見える景色を眺めては、外の世界で自由に動き回る生き物たちを羨みます。特に、水面をよろめきながら泳ぐ目高の群れや、渦に巻き込まれて沈んでいく花弁を見て、彼は深い孤独を感じます。ある夜、岩屋の中に迷い込んだ小蝦が、山椒魚を岩と勘違いして卵を産み付けます。山椒魚は、小蝦の様子を見て、物思いに耽ることを馬鹿らしいと嘲笑しますが、自身も外に出られない状況に焦り、岩屋の入り口に何度も突進しては、無駄な抵抗を繰り返します。その姿を見た小蝦は、思わず失笑します。絶望のあまり、山椒魚は神に自分の苦境を訴えます。しかし、外で自由に動き回る水すましや蛙の姿を見るたびに、彼は一層深い悲しみに襲われ、目蓋を閉じて、自分が唯一自由にできる暗闇に没頭します。

悲嘆に暮れた山椒魚は、ある日、岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込め、外に出られないようにします。閉じ込められた蛙は、安全な窪みに逃げ込み虚勢を張りますが、山椒魚との激しい口論が始まります。しかし、二匹とも外に出ることができず、互いに反目し合ったまま時間が過ぎていきます。やがて、蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散らす光景を見て嘆息を漏らし、それを聞いた山椒魚は、もう降りてきても良いと呼びかけます。しかし、蛙は空腹で動けず、死にかけています。山椒魚が蛙に今の気持ちを尋ねると、蛙は「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ」と答えます。

作品史

『山椒魚』は、井伏鱒二が最初に発表した作品であり、同時に作家生活の中で繰り返し改筆が続けられた作品でもあります。この作品の原型は、1919年に井伏が早稲田大学在学中に書いた習作「幽閉」です。この「幽閉」を改稿したものが1929年に『文芸都市』に発表された「山椒魚」です。

「幽閉」と「山椒魚」は、山椒魚が岩屋に閉じ込められて出られなくなるという基本的なプロットは共通していますが、文体や表現は大きく異なっています。特に「山椒魚」では、蛙との対話が付け加えられ、作品に深みが増しています。1930年には、井伏の最初の作品集『夜ふけと梅の花』に「山椒魚」として収録され、以後、彼の代表作として広く知られるようになりました。

児童文学版「山椒魚」

1940年には、小学館の学習雑誌『セウガク／二年生』に、児童向けに書き直された「山椒魚」が掲載されました。この別稿では、山椒魚の内面的な描写や嘆きよりも、外面的な描写や会話に焦点が当てられ、物語がより直線的で分かりやすいものになっています。また、後に問題となる「蛙との和解」のエピソードは、この児童文学版にはありません。

結末の削除をめぐって

1985年、井伏鱒二は自選全集を刊行するにあたり、『山椒魚』の結末部分を大幅に削除しました。削除されたのは、蛙との和解を描いた部分で、これにより作品の結末は大きく変わりました。この削除は、文壇や読者の間で大きな議論を呼びました。作者の意図や、作品は誰のものかという問題提起がなされ、メディアでも大きく取り上げられました。

井伏自身は、この削除について「外に出られない山椒魚はどうしても出られない運命に置かれてしまつたと覚悟した。絶対といふことを教えられたのだ。観念したのである。」と述べています。しかし、この改稿は、長年作品を愛してきた読者や批評家からは賛否両論の声が上がりました。

文体

「山椒魚」は、その文体も特徴的です。「幽閉」では、山椒魚の心情を直接的に語る一人称的な文体が用いられていましたが、「山椒魚」では、山椒魚の語りと語り手の客観的な説明が明確に区別されています。この分化により、作品に批評性やユーモアが加わり、山椒魚の嘆きが過度に感傷的に描かれることを避けています。また、「欧文直訳体」や自然科学用語の多用も、井伏作品特有の文体的特徴であり、この作品に独特な雰囲気を与えています。

源泉とモチーフ

井伏は、『山椒魚』の着想をアントン・チェーホフの短編小説「賭」から得たと述べています。しかし、作品のテーマや展開は大きく異なっており、ロシアの作家サルティコフ・シチェドリンの短編「賢いカマツカ」が、より近い影響を与えたとする説もあります。

また、この作品には、井伏自身が中学校時代にオオサンショウウオを観察した体験や、当時の自身の閉塞的な状況が反映されているとも考えられています。特に、山椒魚が置かれた状況は、当時の井伏の作家としての焦りや、社会の閉塞感を象徴しているとも解釈できます。

まとめ

『山椒魚』は、井伏鱒二の文学的な才能が凝縮された作品であり、そのユーモラスな語り口の中に、人間の存在や運命に対する深い洞察が込められています。作品の成立過程や改稿問題を含め、さまざまな角度から分析することで、より深く作品を理解することができるでしょう。また、教科書にも掲載されるなど、幅広い読者に愛されてきた作品であり、時代を超えて読み継がれるべき文学作品の一つと言えるでしょう。

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