岸由二

日本の進化生態学者であり、慶應義塾大学名誉教授の岸由二氏は、自然と人間社会が織りなす関係性を探求し、その成果を社会に還元するための実践活動を精力的に行っている研究者です。

1947年に東京都に生まれた岸氏は、横浜市立大学で生物学を修め、その後、東京都立大学大学院で動物生態学の研究を進めました。特に「チチブの社会生態学的研究」は氏の重要な初期研究であり、この成果によって1980年に理学博士号を取得しました。生物個体間の行動や集団の構造といったミクロな視点での研究から、その学究キャリアは始まりました。

博士号取得後、岸氏は慶應義塾大学経済学部に着任。助教授を経て1991年には教授に昇任し、2013年に定年退任して名誉教授の称号を得ました。経済学部という場で、生物学・生態学の知見をどのように人間社会や経済活動、都市環境と結びつけるかという問いに向き合ったことは、氏の研究テーマを大きく広げる契機となりました。この時期に深化させたのが、「流域アプローチによる都市再生論」です。

「流域思考」とも呼ばれるこの考え方は、単一の場所や特定の生物種に限定せず、山から川、そして海へと繋がる流域という包括的なシステム全体を捉え、その中で人間活動と自然環境がどのように相互作用しているかを理解しようとするものです。都市開発や経済活動が自然環境、特に水循環や生態系に与える影響を、流域という広がりの中で評価し、自然の働きを活かした持続可能な都市や地域のあり方を模索します。

岸氏の研究は机上の空論に終わらず、具体的な地域での実践へと繋がっています。その代表例が、神奈川県三浦半島の小網代の谷での保全活動です。開発の危機に瀕していたこの貴重な自然環境を守るため、市民や行政と連携し、流域全体を視野に入れた保全計画の策定と実行に中心的な役割を果たしました。その経緯は『いのちあつまれ小網代』などの著作に詳しいです。

また、氏が代表を務める鶴見川流域ネットワーキング（TRネット）では、鶴見川流域をフィールドに、流域思考に基づいた様々な市民参加型の活動を展開しています。水害リスクの低減を目指す「流域治水」の考え方を普及させるとともに、川やその周辺に生息する生き物たちの調査・観察を通じて、地域の自然環境に対する住民の関心を高める活動を行っています。トレッサ横浜での防災イベントのように、地域住民や企業、行政と協力して啓発活動に取り組む姿勢は、氏の実践者としての側面をよく表しています。

教育者として、また研究者として、岸氏は多数の著作を発表し、自身の研究成果や考え方を広く発信しています。自然観察ガイドから、流域論、進化生態学史、生物多様性に関するものまで、その著作は多岐にわたります。代表的なものとしては、流域思考に関する啓蒙的な著書や、小網代の谷に関する著作などがあります。

さらに、国内外の重要な生物学・生態学に関する知見を日本に紹介する役割も担ってきました。特に、リチャード・ドーキンスの画期的な著作『利己的な遺伝子』や、E.O.ウィルソンの著作、ダグラス・J.フツイマの進化生物学の教科書など、現代生物学に大きな影響を与えた多くの書籍の翻訳や監修を手がけています。これらの翻訳活動を通じて、日本の生物学・生態学研究の発展や、一般市民の科学リテラシー向上に大きく貢献しました。

進化生態学の深い知識を基盤に持ちながら、研究対象を人間社会との関わりにまで広げ、具体的なフィールドでの実践を通じてその理念を実現しようとする岸由二氏の活動は、持続可能な社会の構築を目指す上で、示唆に富むものです。生物多様性の保全、防災、都市計画といった多様な課題に対して、「流域思考」という一貫した視点からアプローチし、研究者、実践者、そして知の紹介者として、多角的な貢献を続けています。

もう一度検索