微生物環

微生物環（びせいぶつかん、Microbial loop）は、海洋の生態系において物質とエネルギーがどのように流れるかを示す重要な概念の一つです。この経路は、主に海水中に溶け込んでいる有機物（溶存有機物質）、それを栄養源として利用する従属栄養性細菌、そしてその細菌を捕食する微小な動物プランクトンという三つの要素によって構成されています。この概念は、微生物ループやマイクロビアルループとしても知られています。

この概念は、1980年代に研究者であるアザム（Azam）らによって初めて提唱されました。それまでの海洋生態系における栄養の流れの理解では、主に大型の植物プランクトン（例えば珪藻など）が光合成を行い、それを草食性の動物プランクトン（カイアシ類など）が食べ、さらに肉食性の動物プランクトン（ヤムシなど）やより高次の捕食者へとエネルギーが受け渡されていく、いわゆる「生食食物連鎖 (grazing food chain)」が主な経路であると考えられていました。

しかし、その後の海洋微生物に関する研究手法が大きく進歩するにつれて、従来の食物連鎖では説明できないほど活発な物質とエネルギーの動きが存在することが明らかになりました。特に、海水中に豊富に存在する従属栄養性細菌は、その生物量は見かけ上比較的安定しているにもかかわらず、非常に速い速度で増殖しており、一日に一度分裂するほどの増殖率を示していることが分かりました。そして、これらの細菌は、主に鞭毛虫や繊毛虫といった微小な動物プランクトンによって、その速い増殖にほぼ匹敵する速度で盛んに捕食されていることも明らかになりました。この細菌と微小動物プランクトンの間での物質とエネルギーの移動は、従来の生食食物連鎖を通じて流れるエネルギーや物質の量に匹敵するか、場合によってはそれ以上の規模であることが判明しました。

微生物環という名称に「環（ループ）」という言葉が使われているのは、この栄養経路が閉じた循環的な性質を持っているためです。このシステムの中では、微小動物プランクトンが従属栄養性細菌を食べる際に排出される有機物や、微生物が死んで分解される際に放出される有機物が、再び溶存有機物質として利用され、従属栄養性細菌の栄養源となります。このように、物質が一方通行で流れる「鎖（チェーン）」ではなく、システム内部で循環する構造になっているため、「環」と呼ばれています。この循環的な特徴から、微生物環における物質やエネルギーの移動は、直接的に魚などの高次の捕食者へ繋がる「正味の生産（純生産）」にはあまり寄与せず、主に海洋の表層で物質が循環していると考えられています。

また、シアノバクテリアのような極めて小さな（ピコサイズ）植物プランクトンも、高い増殖速度を持ち、微小動物プランクトンにとって重要な餌源となることから、微生物環の一部分、あるいはその「支流」を形成していると考えられています。ただし、光合成によって自分で有機物を作り出す独立栄養生物である植物プランクトンと、外部から有機物を取り込んで利用する従属栄養生物である細菌とは、栄養を獲得する方法（栄養形態）が異なります。この栄養形態の違いを考慮して、シアノバクテリアなどの独立栄養微生物を含めたより広範で複雑な栄養経路全体を指す際に、「微生物食物網 (microbial food webs)」という言葉で区別することもあります。

微生物環が海洋生態系全体におけるエネルギーや炭素の流れに占める割合は、場所によって異なります。一般的に、栄養塩が少なく、生物の生産性が低い貧栄養な外洋域では、沿岸域や内湾域に比べて、生物活動による全エネルギーや炭素のフラックス（流れ）のうち、微生物環が占める割合が高い傾向があります。これは、貧栄養な環境では大型の植物プランクトンによる生産があまり活発でない一方、溶存有機物を効率的に利用する従属栄養性細菌や、それを食べる微小動物プランクトンが相対的に重要な役割を果たすためと考えられます。

微生物環の発見と研究は、海洋生態系における物質・エネルギー循環のメカニズムを理解する上で、革命的な変化をもたらしました。この複雑でダイナミックな微生物間の相互作用は、地球規模での炭素循環や海洋の生産力に深く関わっており、生物海洋学や食物連鎖といった関連分野の研究においても、その重要性がますます認識されています。

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