思ひ出す事など

「思ひ出す事など」：修善寺での闘病と人々の繋がり

夏目漱石の随想「思ひ出す事など」は、1910年（明治43年）の夏、著者が修善寺で経験した重篤な胃腸病とその後の回復過程を克明に描いた作品です。漱石前期3部作と後期3部作の中間に位置するこの随想は、彼の内面世界と周囲の人間関係を深く理解する上で重要な手がかりを与えてくれます。

発端：修善寺での危篤状態

1910年6月、漱石は胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院。退院後、門下の松根東洋城の北白川宮への随行に同行する形で修善寺を訪れます。養生を目的とした旅行でしたが、漱石の体調は悪化の一途を辿り、8月17日には吐血。事態の深刻さを悟った東洋城は長与病院に連絡を取り、森成麟造医師と坂元雪鳥が修善寺へ駆けつけます。さらに、妻の鏡子も修善寺へ合流。しかし、8月24日、漱石は再び吐血し、危篤状態に陥ります。周囲の献身的な看病によって一命を取り留め、10月11日に東京の長与胃腸病院へ移送され、翌年2月26日に退院することになります。

作品の内容：三部構成による描写

「思ひ出す事など」は大きく3つのパートに分けられます。

第一部（1～7章）：長与胃腸病院での日々

このパートでは、長与胃腸病院での入院生活の様子が淡々と描かれています。見舞いに来た人々への報告や、日々の出来事、そして自身の心境の変化などが綴られています。特に5章では、見舞客への連絡や感謝の思いが強く表現されています。また、2章では長与院長の訃報を知らされる場面、4章では「思ひ出す事など」の原稿執筆中に池辺三山から叱責を受ける場面などが挿入されています。

第二部（8～15章）：修善寺での危機

本書の中核を成すこのパートでは、8月6日から24日までの修善寺での出来事が詳細に記されています。8月17日の吐血、野田医師の診察、長与病院への連絡、そして森成医師と坂元雪鳥の到着。時間軸を行き来しながら、漱石は修善寺での日々を振り返り、危篤状態に陥るまでの状況を鮮やかに描き出しています。関東地方を襲った豪雨や、妻鏡子からの連絡、そして周囲の人々の支えなどが、臨場感をもって語られています。13章では杉本副院長の診断と、その直後の吐血、そして意識消失の場面が緊張感をもって描写され、14章では意識朦朧とした状態の中で、医師とのやりとりが克明に記されています。15章では30分間の意識消失に関する考察が示されています。

第三部（16～33章）：回復と帰京

8月25日以降の回復過程が描かれています。ただし、このパートでは出来事よりも漱石自身の思考や心境の変化が中心となっています。杉本医師の帰京、看護婦の派遣、家族の面会、食事量の増加など、徐々に回復していく様子が描かれる一方で、漱石の精神的な葛藤や、自身の死生観といった内面世界への深く踏み込んだ描写が多く見られます。32章では東京への帰京、そして33章では長与胃腸病院での療養生活の終わりと退院が記されています。

登場人物：漱石を取り巻く人々

この随想には、漱石の妻である鏡子、門下の松根東洋城、森成麟造医師、坂元雪鳥、杉本東造副院長、長与称吉院長、野田洪哉医師、渋川玄耳、池辺三山など、多くの人物が登場します。それぞれの登場人物が漱石の病と回復にどのように関わったのか、彼らの行動や言葉を通して、漱石を取り巻く人間関係の深さや温かさが伝わってきます。特に鏡子の献身的な看病や、森成医師、坂元雪鳥ら医師たちの迅速な対応、そして周囲の人々の支えは、漱石の回復に大きく貢献したと言えるでしょう。

菊屋のその後

漱石が滞在した修善寺の菊屋は、現在は当時の別館が本館として残っています。漱石が吐血したとされる部屋は、修善寺虹の郷に移築され、「夏目漱石記念館」として公開されています。

「思ひ出す事など」は、単なる病床日記ではなく、漱石の生死をかけた闘病と、それを支えた人々との深い繋がりを描いた、人間の温かさを感じさせる、貴重な文学作品です。

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