恥 (小説)

太宰治の短編小説『恥』：羞恥心と創作の葛藤

太宰治の代表作の一つに数えられる短編小説『恥』は、23歳の女性「和子」を主人公とした作品です。和子は、小説家である戸田に、彼の小説への感想と鋭い批評を込めた手紙を送ります。匿名で送られたその手紙には、戸田の作品への深い理解と、同時に辛辣な批評が綴られていました。戸田の作品に潜む哀愁を認めながらも、その欠点についても明確に指摘していました。

しかし、和子はその後、『文学世界』誌に掲載された戸田の短編小説『七草』を読んで衝撃を受けます。『七草』の主人公は、年齢や父親の職業に至るまで、彼女自身と驚くほど酷似していたのです。和子は、戸田が彼女の手紙の内容をヒントに、自身の情報を何らかの方法で入手して小説を書いたのではないかと推測します。

この推測に基づき、和子は戸田に再び手紙を書きます。今度は自分の名前と住所を記し、戸田の小説に対する複雑な感情を吐露しました。数日後、戸田から葉書が届き、和子の心は戸惑いと動揺で揺れ動きます。

和子は戸田の作品を通して、自身の内面を客観的に見つめ直すことになります。戸田の小説は、彼女の隠された感情や心の傷を鮮やかに描き出しており、まるで鏡に映る自分の姿を見ているかのようです。戸田の小説に投影された自分自身と向き合うことで、彼女は自身の羞恥心や、これまで抱えていた心の痛みと改めて対峙せざるを得なくなります。

物語の冒頭では、聖書のサムエル記を引用する場面が登場します。和子の友人が語るタマルの物語は、和子の心の内を象徴的に表しています。灰をかぶって泣き叫ぶタマルの姿は、和子が抱える深い悲しみと、それを隠そうとする羞恥心を鮮やかに表現しています。

『恥』は、創作の過程における倫理的な問題も提起しています。匿名の手紙からインスピレーションを得て小説を書くという行為は、プライバシーの侵害や、創作の倫理的な境界線を曖昧にする危険性を孕んでいます。戸田の行為は、読者にとって、創作と現実の境界の曖昧さを考えさせる契機となります。

和子は、戸田に会うことを決意します。それは、自身の複雑な感情と、戸田との関係性、そして自身のアイデンティティについて、直接対峙する決意の表れです。彼女の行動は、自身の内面に潜む葛藤を乗り越えようとする、強い意志の現れと言えるでしょう。彼女は戸田に会うため、彼の小説に書かれていた脚気のことを思い起こし、毛布を風呂敷に包んで持っていくという、細やかな気遣いも見せます。

『恥』は、単なる恋愛小説や創作小説にとどまらず、人間の羞恥心、心の奥底に潜む痛み、そして自己認識といった普遍的なテーマを扱った作品です。和子の葛藤を通して、読者は人間の複雑な感情と、自己と他者との関係性を深く考えさせられます。また、創作行為の倫理的な側面についても問いかける、奥深い作品と言えるでしょう。

2015年には、角田光代氏によって『女性作家が選ぶ太宰治』に収録されており、その文学的な価値が再評価されています。この作品は、太宰治文学の多様な側面を理解する上で、重要な作品の一つと言えるでしょう。

もう一度検索