日本人バイカル湖畔起源説

「日本人バイカル湖畔起源説」は、現代の日本人集団の主なルーツが、シベリア南東部のバイカル湖周辺、特にブリヤート人などが居住する地域にあるとする仮説です。

説の提唱と根拠

この説を強く提唱した一人が、大阪医科大学名誉教授の松本秀雄氏です。同氏は、個々の民族集団が持つ抗体遺伝子であるGm遺伝子の頻度分布に注目しました。Gm遺伝子は民族によって異なる固有の値を示すマーカーとして機能すると仮定し、東アジアを中心に広範な集団の血液サンプルを分析しました。その結果、日本人のGm遺伝子パターンが、シベリアのバイカル地方の集団、特にブリヤート人と高い類似性を示すことを見出しました。

松本氏の研究によれば、モンゴロイドはGm遺伝子の分布から「南方系」と「北方系」に大別でき、日本人のほとんどは「北方系」に属し、南方系モンゴロイドとの混血率は低いとされました。また、北海道から沖縄にかけて、ことGm遺伝子に関しては日本人集団の顕著な均質性を指摘しました。ただし、アイヌや沖縄・宮古の人々は、他の日本人集団とは若干異なるパターンを示すものの、両者間では高い等質性が見られることも報告しました。この研究結果に基づき、日本民族に特徴的なGm遺伝子パターンの源流をバイカル湖畔に求め、そこからモンゴル、朝鮮、日本、アイヌ、チベット、イヌイットへと広がった可能性を提唱しました。

考古学の分野からも、この説を補強する見解が出されました。考古学者の加藤晋平氏は、約1万2千年前から1万3千年前頃にかけて東日本で栄えた細石刃文化の技術伝統が、バイカル湖周辺から伝わった可能性を指摘しています。細石刃という高度な石器製作技術は、各地で独自に発生したとは考えにくく、人々の移動に伴ってバイカル湖近辺から日本列島へ伝播したと推測しました。加藤氏は、この考古学的な仮説と松本氏の遺伝学的な研究結果が一致したことに注目し、その偶然の一致に驚きを示しています。

既存の説と異論

松本氏がこの説を提唱する以前は、人類学者である埴原和郎氏による「二重構造モデル」が日本人の起源に関する有力な仮説として定着していました。このモデルは、主に骨計測に基づき、まず南方アジアを経由した人々（縄文人の祖先）が日本列島に定着し、その後、大陸から多くの北方モンゴロイド系の人々（弥生人の祖先）が渡来して、両者が混血して現代日本人が形成されたとするものです。アイヌについては、縄文人が弥生人とほとんど混血せずに進化した集団と位置づけられていました。

松本氏は、自身のGm遺伝子の研究結果が、埴原氏の「原日本人の南方起源」とする点と一致しないことから、これに異論を唱え、「日本人集団は基本的に北方モンゴロイドに属する」という見解を示しました。また、他の研究者の知見も自身の説を支持するものとして引用しています。例えば、HLAや常染色体DNAを用いた系統樹分析で日本人を北方系に分類する研究や、ミトコンドリアDNA分析で縄文人も北方起源でありブリヤートと共通因子があるとする研究などが挙げられます。

近年の研究による疑問視と反論

しかし、近年の遺伝学的な研究、特にミトコンドリアDNAやY染色体の詳細な分析が進むにつれて、日本人バイカル湖畔起源説には多くの疑問点が投げかけられるようになりました。

例えば、現代の北アジア人に見られるY染色体ハプログループ（C2系統、N系統、Q系統など）と、日本人に多く見られるハプログループ（O系統、D系統、C1系統など）が異なることが指摘されています。また、弥生時代の日本列島への渡来民（弥生人）の総数が、かつて考えられていたよりも少なかった可能性が高まっています。稲作の伝播を担った集団に関連すると推定されるY染色体ハプログループO1b2は、日本列島や朝鮮半島には多く見られますが、バイカル湖周辺を含む北アジアにはほとんど存在しないことから、弥生人の直接の起源がバイカル湖周辺ではない可能性が高いと考えられています。

さらに、松本氏のGm遺伝子研究に対する批判もあります。名古屋大学の吉田茂生氏らは、Gm遺伝子のデータが日本人とブリヤートの遺伝的近縁性を示すとしても、両集団の共通祖先が別の場所にいた可能性を否定できず、直ちに日本人の起源がバイカル地方であるとは結論できないと指摘しています。東京大学の尾本恵市氏や国立遺伝学研究所の斎藤成也氏も、単独の遺伝子座の情報だけで人類集団の起源を判断することの限界を指摘し、松本氏の説に対して日本の人類学者からの反論が強いことを述べています。

考古学の分野でも、細石刃文化は北方に限らず、インドネシアや中国南部などより南の地域からも発見されており、その起源が必ずしもバイカル湖周辺に限定されるわけではないという見方もあります。

現在の状況

近年のゲノムワイドな解析など、より多くの遺伝子情報に基づく研究からは、日本人の形成には多様な系統が関わっていることが示唆されており、単一の地域に起源を求める説は支持されにくくなっています。ただし、ブリヤート人などに多く見られるハプログループC2が日本人にも一定程度（約5%）見られることなど、バイカル湖周辺を含む北方からの影響が、弥生時代以降も含めて断続的にあった可能性は完全に否定されていません。

日本人バイカル湖畔起源説は、過去の特定の研究成果に基づいて提唱された仮説であり、特にGm遺伝子研究の成果は、それまで有力だった説とは異なる視点を提供しました。しかし、その後の遺伝学や考古学の進展により、現在ではそのまま定説として受け入れられているわけではありません。日本人の複雑な起源を探る上で、北方からの影響という一側面を示唆する説として位置づけられています。

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