森本治枝

森本 治枝（もりもと はるえ、1902年（明治35年）生まれ、1995年（平成7年）3月12日没）は、日本の数学界において、女性の先駆けとして大きな足跡を残した人物です。夫もまた数学者である森本清吾氏です。治枝氏は、女性が高等教育を受けることが極めて稀だった時代に、学問への道を果敢に切り拓き、晩年には夫に先立たれた後、女手一つで育てた4人の子供たち全員を大学教授（天文学者の森本雅樹氏、経済学者の森本芳樹氏など）に育て上げたことでも知られています。

略歴

明治35年（1902年）、大阪府大阪市北区曽根崎に生まれた森本治枝氏は、大阪府立清水谷高等女学校（現：大阪府立清水谷高等学校）を卒業後、大正7年（1918年）に東京女子高等師範学校（現：お茶の水女子大学）の理科へ進学します。卒業後の大正13年（1924年）、現在の東北大学の前身である東北帝国大学理学部数学科に入学し、昭和2年（1927年）3月に卒業。同年6月には、東北帝大で出会った助手の深澤清吾氏と結婚します。周囲の反対がありながらも結ばれた二人は、夫が姓を森本に改称しました。結婚後も治枝氏は数学の研究を続け、津田塾大学などで教鞭を執ります。帝大出身である治枝氏に憧れる多くの女子学生に、幾何学や物理学を探究する道を示しました。

学問への情熱と困難

大阪の資産家の長女として育った治枝氏は、高等女学校への進学すら一般的ではなかった時代に、名門とされる清水谷高女に進みました。卒業時には、婿を迎えて家業を継がせようとする父を説得し、東京女子高等師範学校への進学を叶えます。

女性が高等教育機関へ進む割合が1%にも満たなかったこの時代、治枝氏は東京女高師の理科物理専科生として、当時の理論物理学界の最高権威である東京帝国大学教授の佐野静雄氏や、東北帝国大学理科大学教授の愛知敬一氏らに師事しました。また、得意としていたギリシャ語やラテン語などの語学力を活かし、大正11年（1922年）に理論物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が来日した際には、仙台市公会堂での講演会でドイツ語の通訳を務める経験もしています。

物理学への思いを募らせた治枝氏は、大正13年（1924年）、21歳で東北帝国大学の理学部数学科に入学。日本の数学界を代表する藤原松三郎氏や、主任教授の林鶴一氏に師事しました。しかし、本来物理科を志望していたにもかかわらず、女子の志願者が治枝氏一人であったため、入試における男女ペアでの暗室実験が問題視され、大学側から入試直前に数学科への変更を説得されるという一幕がありました。

男子学生と同じ難関を突破して入学したにもかかわらず、当時の社会情勢下で女性に対する風当たりは強く、男子学生からノートを借りただけで叱責されたり、助手（後の夫、深澤清吾氏）から交際を申し込まれたことが原因で指導教官の林鶴一氏の激怒を買ったりするなど、女性数学者としての道のりは苦難の連続でした。

明治女性の気概と教育

次男で天文学者の森本雅樹氏（国立天文台・鹿児島大学名誉教授）によると、母である治枝氏は「理屈に合うこと、正しいと信ずるなら、何でもする人」であり、明治の女性らしい強い気概と凛とした精神の持ち主だったといいます。

昭和29年（1954年）、夫である清吾氏が群馬大学教授に就任してわずか4年で、享年54歳という若さで急逝する不幸に見舞われます。その後、治枝氏は女手一つで4人の子供を育て上げました。長男の治樹氏は数学者（大阪市立大学名誉教授）、三男の芳樹氏は経済学者（九州大学元経済学部長・名誉教授）、四男の英樹氏は生物物理学者（元大阪大学助教授）と、子供たち全員がそれぞれの分野で第一線の研究者となりました。雅樹氏はこの成功の背景には、母である治枝氏が「世間の評価や批判に全く頓着しない」という強い精神性があったからだと懐古しています。また、治枝氏は子供たちの名前に、自身を「枝」に見立て、それよりも大きく育ってほしいという願いを込めて「樹」の字を用いたと言われています。

治枝氏の終始一貫した強い意志は、子供たちに対しても容赦がない面がありました。幼少期の雅樹氏が天体望遠鏡と顕微鏡を買ってもらった際、「四人兄弟への公平」を理由に「遺産の前払い」とされたというエピソードがあります。また、平成5年（1993年）に雅樹氏が、父・清吾氏ゆかりの共愛学園で講演を行った際には、治枝氏が最前列で3時間にわたる講演を聞き続けた後、「何だか（話した内容が）とりとめなかったわね」と辛辣な評価を下したそうです。

晩年と逝去

治枝氏の晩年には「何か面白いことない？」が口癖だったといいます。明治から平成へと、社会も価値観も激変する約92年の生涯において、彼女は常に「大らかで前向きな気持ち」を持ち続けました。入院し、酸素吸入が必要な状況になっても、ベッドから「立たせてほしい」と子や孫にせがみ、「ちゃんと立てないと家に帰れない」と語るなど、文字通り「信念の人」としてその生涯を閉じました。

平成7年（1995年）に享年92歳で亡くなった治枝氏の葬儀・告別式は、夫・清吾氏が信仰していた日本ハリストス正教会教団の東京復活大聖堂（ニコライ堂）で営まれました。結婚後に夫の影響で洗礼を受けた治枝氏でしたが、清吾氏の死後は教会から足が遠のいていました。しかし、最期を迎えるにあたり、愛情と「理屈」を重んじる彼女らしい考えから、「もし私が仏式で極楽へ行ったならば、（天国にいるはずの）清吾さんに会えなくなってしまう」として、夫と同じ正教会の形式での葬儀（埋葬式）を希望しました。これにより、学者夫婦は41年ぶりに“天国”で再会を果たしたと伝えられています。

著書

『ある女性数学者の回想』（九州大学出版界、1995年）

関連人物

森本清吾 - 夫、数学者
森本雅樹 - 次男、天文学者
森本芳樹 - 三男、経済学者
角谷静夫 - 数学者、経済学者
遠山啓 - 数学教育者
陳建功 - 数学者
窪田忠彦 - 数学者
林鶴一 - 数学者、東北帝大教授
藤原松三郎 - 数学者、東北帝大教授

外部リンク

* 理学部数学科第11回卒業記念 ／ 昭和4年(1929)4月28日 - 東北大学史料館写真データベース

（森本治枝氏の写真が掲載されています。）

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