楽興の時 (ラフマニノフ)

ラフマニノフ「6つの楽興の時」作品16：ピアノ音楽の転換点

セルゲイ・ラフマニノフが1896年に作曲したピアノ曲集『6つの楽興の時』作品16は、彼のピアノ独奏曲への本格的な復帰作であり、作曲家としての転換期を示す重要な作品です。フランツ・シューベルトの同名作品に着想を得ていますが、ラフマニノフならではの技巧と表現力が際立っています。

作品の特徴

題名からはシューベルトの影響が感じられますが、楽曲自体はショパンやリストの影響を受けた高度な演奏技術が求められます。各楽曲は、夜想曲、舟歌、超絶技巧練習曲、変奏曲など、19世紀に流行した音楽形式を巧みに取り入れています。演奏時間はおよそ30分。

各曲は独立した性格を持ちながらも、全体として組曲のような構成を成しています。変化に富んだ主題が特徴で、第3曲の厳粛な葬送行進曲から、終曲である第6曲の壮麗なカノンまで、幅広い表現が楽しめます。

ラフマニノフ自身は「作曲する際に心の内にあるものを、単純明快に表現すること」を心がけていたと語っています。この言葉通り、『6つの楽興の時』は、彼のピアノ音楽における知識と経験が凝縮された作品と言えるでしょう。

各曲について

1. 第1番 変ロ短調「アンダンティーノ」: 内省的な旋律で始まり、次第に激しいクライマックスへと向かう。
2. 第2番 変ホ短調「アレグレット」: ラフマニノフの卓越した演奏技巧が堪能できる、技巧的な小品。
3. 第3番 ロ短調「アンダンテ・カンタービレ」: 「葬送行進曲」や「哀歌」と評される、悲しみに満ちた旋律が印象的。
4. 第4番 ホ短調「プレスト」: ショパンの前奏曲に影響を受けたとされる、情熱的な旋律の爆発。
5. 第5番 変ニ長調「アダージョ・ソステヌート」: バルカローレ（舟歌）形式による、穏やかな中間部。
6. 第6番 ハ長調「マエストーソ」: 3声体の重厚なテクスチュアで、壮大に曲集を締めくくる。

作曲の背景

1896年、ラフマニノフは経済的に困窮しており、交響曲の作曲を期待する周囲の要望にも押されていました。同年10月、知人の作曲家ザターイェヴィチに宛てた手紙には、経済的な理由から短期間でピアノ曲を完成させる必要に迫られていることが記されています。実際には全曲の完成に2ヶ月を要しましたが、完成した作品はザターイェヴィチに献呈されました。

評価と受容

『6つの楽興の時』は、批評家から高い評価を受けました。特に、交響曲第1番の作曲中にピアノ独奏曲に回帰したことが、成熟した作曲家への成長を示すものとして評価されました。その後の演奏を通じて、ラフマニノフは長大な旋律の中に繊細なリズムと生命力を込める作曲家として、その名声を確立しました。

エリザベス・ウルフは、この作品を「濃密で豊かな対位法、高度な半音階、痛切な民族色、深い情感」を持つ、ピアニストにとって非常に魅力的な作品だと評しています。

近年では、ラーザリ・ベルマンが東京でのライブでアンコール演奏したことや、ジュリオ・デ・パドヴァ、イヴォ・ポゴレリチなどのピアニストが全曲演奏するなど、再評価の動きも見られます。

『6つの楽興の時』は、ラフマニノフの初期の作品でありながら、その後の作曲様式の基礎を築いた重要な作品と言えるでしょう。

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