泉の聖母

泉の聖母：ヤン・ファン・エイク晩年の傑作

『泉の聖母』（蘭: Madonna bij de fontein）は、初期フランドル派の巨匠ヤン・ファン・エイクが1439年に描いた油彩の板絵です。この作品は、ファン・エイクの晩年の作風を示す重要な作品であり、その卓越した技術と象徴的な表現が特徴です。19cm x 12cmという小さなサイズながら、細部にまでこだわった精緻な描写が、見る者を魅了します。

作品の特徴

この作品は、「閉ざされた庭園 (hortus conclusus)」という構成で描かれており、泉（実際には噴水）は「いのちの泉 (fountain of life)」の象徴として扱われています。聖母マリアは青色のドレスを身に着け、二人の天使が支える豪華な刺繍入りの金襴が、彼女の背後を四角く囲んでいます。幼児キリストは左手に祈祷用のビーズを持ち、背景のバラの茂みはロザリオの象徴であることを示唆しています。15世紀半ばから後半にかけて、ロザリオは北方ヨーロッパでも広く用いられるようになりました。

ファン・エイクの他の聖母マリア像では、マリアは赤色のドレスを着用していることが多いですが、この『泉の聖母』では珍しく青色のドレスで描かれています。当時のフランドル絵画では、聖人の衣服は赤い顔料で彩色されるのが一般的でしたが、これは高価なコチニールを原料とする染料が使われていたためです。一方、ルネサンス期のイタリア人画家たちは、マリアの衣服に高価な青色顔料であるウルトラマリンを使用していました。ファン・エイクが後期作品で青色顔料を使用したことは、イタリア絵画の影響があったと考えられています。

ビザンチン美術の影響

ベルリンの絵画館が所蔵する『教会の聖母子』とこの『泉の聖母』は、ファン・エイクが最晩年に描いた2点の聖母子像です。ファン・エイクの初期作品ではマリアは座像で描かれることが多いですが、これらの作品では立像で描かれています。この立像のマリアは、ビザンチン美術のイコンによく見られる構図であり、ファン・エイクの作品は「エレウサのイコン」と呼ばれる作品群の影響を受けていると考えられています。「エレウサのイコン」は、マリアと幼児キリストが頬を寄せ合い、キリストがマリアの顔に触れるという構図が特徴です。特に『教会の聖母子』では、マリアが赤いドレスの上に『泉の聖母』と同じ青色のマントを羽織って描かれている点が、両作品の関連性を示しています。

14世紀から15世紀にかけて、ビザンチン絵画は北ヨーロッパに大量に持ち込まれ、初期フランドル派の画家たちによって模写されました。初期フランドル派の画家たちは、ビザンチン美術の影響を受け、ジョットなどの画家の作品に見られる、マリアを大きな身体の女性として描く作風を取り入れました。ファン・エイクもこの作風を取り入れていますが、具体的な影響を受けた作品については議論が続いています。ただし、ファン・エイクがこの作風の絵画を直接目にしたのは、1426年または1428年のイタリア訪問時だと考えられています。

複製画と影響

『泉の聖母』は、完成直後からファン・エイクの工房で多数の複製画が制作されました。ファン・エイクの弟子であったヘラルト・ダヴィトは、1500年から1510年ごろに聖母子を描いたドローイングを制作しており、このドローイングはダヴィトの『聖母子と天使』の下絵とされています。メトロポリタン美術館所蔵の『聖母子と天使』は、当初『泉の聖母』の複製画として描き始められたものの、途中で様々なモチーフが加えられたことが明らかになっています。

結び

『泉の聖母』は、ヤン・ファン・エイクの卓越した技術と芸術的な感性が融合した傑作です。その繊細な描写、象徴的な表現、ビザンチン美術の影響など、様々な要素が複雑に絡み合い、見る者を魅了します。この作品は、初期フランドル派の美術史において、重要な位置を占める作品として、今もなお多くの人々を魅了し続けています。

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