特性のない男

オーストリアを代表する作家、ローベルト・ムージルがライフワークとして執筆した長編小説『特性のない男』は、ドイツ語で書かれた20世紀文学の中でも極めて重要な地位を占める作品です。物語の舞台は、第一次世界大戦勃発を目前に控えた1913年から1914年にかけてのオーストリア＝ハンガリー帝国の首都ウィーン。崩壊前夜の多民族国家、通称「カカニア」（ムージルによる帝国を風刺的に呼ぶ際の造語）の雰囲気を背景に、主人公の知的な探求と、時代の精神的な混乱が描かれます。

本作は作者の生前には完成しませんでした。第一巻（第一部・第二部）が1930年に、第二巻（第三部冒頭部分）が1933年に刊行された後、第三巻の校正刷が1938年に出来上がりますが、同年ナチス・ドイツがウィーンに進攻したことで事態は急変します。作品は禁書とされ、ムージルはスイスへ亡命。困窮の中執筆を続けますが、1942年に急逝したため、ついに未完に終わりました。彼の死後、残された膨大な遺稿が整理・編集され、作品全体が公刊されるに至ります。

物語は大きく四つの部に分かれています。

第一部 - 一種の序論: 物語の舞台設定と主要な状況が提示されます。
第二部 - 似たようなことがおこる: 多様な出来事が並行して描かれ、人間関係や社会の様相が立体的に浮かび上がります。
第三部 - 愛の千年王国の中へ（犯罪者たち）: 後半の中心となるテーマと人間関係が展開します。
第四部 - (一種の終り): 未完部分に相当しますが、構想された結末の断片を含みます。

主要な登場人物は多岐にわたりますが、特に重要な人物として以下が挙げられます。

ウルリヒ: 物語の中心人物。32歳、無職で独身。「特性のない男」と呼ばれる彼は、かつて軍人、機械工学者、数学者と様々な道に進みながらも、どれにも定着せず、世俗的な出世や成功に関心を持ちません。現実を既定のものとして受け入れるのではなく、他のありうる可能性を常に意識する「可能性感覚」を持ち、そのために世界が幻想的に見え、悩まされます。著名な法律学者であった父の勧めで、「平行運動」という奇妙な計画に参加することになります。
ディオティーマ: ウルリヒのいとこ。外務省高官の妻で、社交界の中心的な存在。彼女が主宰するサロンが「平行運動」の主な会場となり、理想主義的な視点から運動を推進しようとします。
モースブルッガー: 娼婦を殺害し、死刑判決を受けた男。その精神状態と責任能力は法廷や社交界で議論の的となり、作品全体に異質な影を落とします。
アガーテ: ウルリヒの妹。長年生き別れていましたが、父の死を機に再会し、やがてウルリヒと同居するようになります。二人の間には近親相姦的なニュアンスを帯びた、複雑で特殊な関係が生まれます。

物語の展開は伝統的な筋書きに沿うものではなく、登場人物たちの思想的な議論や内省、そして語り手による多角的な考察が多くを占めます。そのため、本作は「20世紀初頭の思想史のパノラマ」と評されることもあります。

前半部分（第一部・第二部）では、ウルリヒが伯爵の名誉秘書として関わる「平行運動」が物語の軸となります。これは、ドイツ皇帝の即位30周年に対抗し、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位70周年を盛大に祝うという、どこかずれた計画でした。この運動には、ディオティーマをはじめ、プロイセンの実業家アルンハイムやシュトゥム将軍など様々な人物が参加しますが、議論は空回りし、帝国の空虚さを浮き彫りにします。同時に、ウルリヒを巡る女性たちとの関係や、モースブルッガー事件を巡る社会の反応などが描かれます。

後半部分（第三部）では、父の死後再会し、同居を始めたウルリヒと妹アガーテの関係が物語の中心へと移行します。二人は世俗から隔絶されたかのような空間で、「愛の千年王国」といったテーマを巡る観念的な探求を進めます。この部分も、社交界での出来事やモースブルッガーへの関心などが絡み合いますが、次第に二人の間の特別な関係性が主軸となります。

作品には、前述の「可能性感覚」のほかにも、「エッセイスムス（試行主義）」のように、世界や自己を固定的なものでなく、常に試みや可能性として捉えようとする重要な概念が登場し、ウルリヒの思索の根幹をなしています。

『特性のない男』は、単なる小説の枠を超え、第一次世界大戦前夜のヨーロッパ社会、特にオーストリア＝ハンガリー帝国の精神的状況を深く洞察した作品であり、また、近代人の内面や思想のあり方を徹底的に問い直した記念碑的な「全体小説」と位置づけられています。その未完の形式もまた、主題の一部であるかのように感じられます。日本語訳も複数刊行されています。

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