禽獣 (小説)

川端康成『禽獣』：愛と非情が織りなす虚無の物語

川端康成の短編小説『禽獣』は、愛玩動物への愛情と人間に対する冷淡さが同居する、特異な主人公の視点を通して、生と死、美と醜さ、そして人間の根源的な孤独を描いた作品です。1933年に雑誌『改造』に発表され、その後、単行本『水晶幻想』などに収録されました。

あらすじ

物語は、主人公の「彼」が昔の恋人である千花子の舞踊会へ向かうタクシーの中で、過去の記憶を回想する場面から始まります。「彼」は、犬や小鳥などの動物を溺愛する一方で、人間関係に強い嫌悪感を抱いています。彼は、ペットたちの純粋な生命に心惹かれる一方、子犬を選別して間引いたり、死んだ小鳥を放置したりするなど、その愛情は歪んでいます。また、かつて愛した千花子の変貌にも失望し、彼女の踊りの衰えを厳しく批判します。

回想の中で、彼は愛玩していた菊戴という小鳥を死なせてしまった過去を思い出します。彼は、その小鳥が死んだ原因が、自分の過剰な愛情にあることを自覚しています。しかし、彼はそれを反省するどころか、新たに手に入れた小鳥も同様に死なせてしまいます。この出来事は、彼の動物に対する愛情が、単なる自己満足に過ぎないことを示唆しています。

舞踊会で久しぶりに再会した千花子は、以前の輝きを失い、容貌も変わってしまっていました。「彼」は、彼女の変貌に失望し、過去に彼女と心中しようとしたことを思い出します。その時、千花子は死を前にしながらも、無心に合掌していました。「彼」は、その姿に「虚無のありがたさ」を感じ、心中を思いとどまったのでした。しかし、彼は千花子への失望を隠せず、彼女の踊りを「堕落」と捉え、彼女の人生を否定します。

物語の最後に、「彼」は、近頃愛読していた16歳で亡くなった少女の遺稿集の一節を思い出します。その一節は、娘の死化粧をした母親が、娘の死んだ日の日記の終わりに書き記したものでした。「生れて初めて化粧したる顔、花嫁の如し」という言葉は、死の美しさを表しており、主人公の虚無的な心情を象徴しています。

登場人物

彼：40歳近い独身男性。厭人癖があり、小鳥や犬などの動物を溺愛する。音楽雑誌に金を払い、音楽会や舞踊会に通っている。かつて千花子と心中未遂をしたことがある。
千花子：昔、「彼」が愛した女性。元娼婦で、その後ハルビンで踊り子となり、帰国後は伴奏弾きと結婚した。再会した際には、舞踊は衰退していた。
女中：「彼」の家の女中。彼と共に動物の世話をしている。
その他：タクシー運転手、客、小鳥屋、近所の子供たち、犬屋、ドーベルマンの買手、若い男、千花子の亭主などが登場する。

作品の背景

川端康成は、この作品を執筆した時期、実際に様々な犬や小鳥を飼っており、その経験が作品に反映されています。また、当時、踊り子たちとも交流があり、舞踊にも関心を持っていました。これらの体験が、「彼」の愛玩動物への愛情や、千花子の舞踊への関心として描かれています。川端自身は、『禽獣』を「いやらしいもの」として嫌悪し、自己嫌悪を表明していましたが、三島由紀夫は、この作品を川端文学の重要な作品として高く評価しています。

作品評価

『禽獣』は、発表当初から様々な評論がありましたが、三島由紀夫の論考以降、本格的な作家論が活発に展開されるようになりました。評論家たちは、この作品における「愛」と「非情」、「純粋さ」と「醜さ」といった二面性を分析し、主人公の屈折した心理や、作者自身の自己嫌悪について論じています。また、川端の感性や美意識が、いかにして作品に反映されているかを考察し、川端文学の本質に迫っています。

王薇婷は、主人公が求める「人工的な純粋」に注目し、それが川端自身の内面を反映していると指摘しています。藤本正文は、主人公の視点が「毒々しい」としながらも、同時に「人間の本質」を映し出す鏡のような役割を果たしていると分析しています。

三島由紀夫は、この作品に「作家という人間の畜生腹の悲哀」が描かれていると指摘し、動物の無垢な眼差しと、人間としての自己を洞察する作家の苦悩を描いていると考察しています。

主要な刊行本

『禽獣』は、様々な形で刊行されています。単行本としては、『水晶幻想』や『禽獣』というタイトルで刊行されたほか、文庫版としては、『伊豆の踊子』や『抒情歌・禽獣』などのアンソロジーに収録されています。また、海外でも翻訳されており、世界各国で読まれています。

まとめ

『禽獣』は、川端康成の独特な美意識と、人間に対する深い洞察が凝縮された作品です。主人公の歪んだ愛情や、登場人物たちの複雑な感情を通して、人間の業や孤独、そして生と死といった普遍的なテーマを描いています。この作品は、単なる愛憎劇としてだけでなく、人間の存在そのものに深く迫る文学作品として、多くの読者を魅了し続けています。

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