秋庭太郎

日本の演劇学者 秋庭太郎（あきばたろう）は、1907年 5月19日に生まれ、1985年 3月17日にその生涯を終えました。特に永井荷風に関する優れた研究で知られ、日本近現代演劇史や風俗研究においても多大な功績を残しました。

東京・深川に生まれた秋庭は、1930年に東洋大学支那哲学文学科を卒業します。大学在学中の1929年には、すでに江戸から明治にかけての文学、演劇、風俗に関する広範な資料を収集し、その成果をまとめた『軟文学研究』を刊行するなど、若くからその学問的才能を発揮していました。1937年には『東都明治演劇史』を著しますが、その後応召し、陸軍少佐として中国や南方戦線を転戦するという経験も経ています。過酷な戦場の体験、特にニューギニアでの九死に一生を得た日々は、彼の死後、遺稿集『ニューギニアの戦い』としてまとめられ刊行されています。

戦後復員した秋庭は、1946年より日本大学図書館に勤務し、やがて館長を務めました。その後は同学部の商学部教授としても教鞭をとります。彼の学問は多岐にわたりますが、特に二つの大きな柱がありました。一つは日本近現代演劇史の研究であり、1955年から翌年にかけて刊行した『日本新劇史』は、1956年度の芸能選奨演劇部門を受賞するなど高く評価されました。そしてもう一つが、彼の名を広く知らしめた永井荷風研究です。1976年に刊行した大著『永井荷風傳』は、翌1977年に読売文学賞を受賞するなど、その質の高さを認められました。

秋庭は永井荷風に深く傾倒しており、荷風研究は彼の学問的探究における最も重要なテーマの一つとなりました。『永井荷風傳』の執筆にあたっては、杉野喜靖氏から多くの貴重な資料提供を受けたほか、杉野氏の協力を得て、荷風ゆかりの人々を文字通り一人一人訪ね歩き、直接話を聞くという丹念な調査を行いました。当時秋庭と初めて対面した廣瀬千香氏は、その著書の中で「まことに礼儀正しく軽口などはきかず、かといって厳しすぎる窮屈士でもなかった」と、その誠実で穏やかな人柄を回想しています。

紅野敏郎氏がその著書『「學鐙」を読む・続』で触れているように、秋庭は「永井荷風に倣って生涯独身を貫き、僧籍に入った」と伝えられています。それほど荷風を敬愛していたにも関わらず、本人と直接対面する機会はあったはずですが、それを敢えて避け、荷風の葬儀に際しても、自宅まで赴きながらも家には上がらず、近隣の人々と共に葬列を見送るに留まったという、独特の距離感を保っていたのも彼の一面です。『妻なく子なく家もなく』が彼の口癖だったといいます。僧籍に入った時期については、1979年のインタビューで19年前、すなわち1960年頃だったと自身が語っており、法名は光信と称しました。青年時代からの夢だったという僧侶としての生活については、「浄土宗の本山で修行を積み、堂守りなどをしながら静かに一人で過ごしたい」と希望を語っていました。しかし、宮岸泰治氏が1983年に彼を訪ねた際には、年齢を理由に朝夕の勤行を行う自信がなく、結局は一般のアパートの一室を借りて暮らしていると話していたといいます。

日本大学での教授としての彼には、多くの逸話が残されています。声優の古川登志夫氏らが回想するように、日大での教壇に立つ際は、普段着として和服に袴という姿を通し、夏場は浴衣を着用することもあったという unconventional な人物でした。鞄を持たず、著書や教科書を風呂敷に包んで大学に現れ、教鞭をとる姿は、学生たちの間で名物教授として語り継がれています。彼の授業における試験も独特でした。学生に白紙を配り、「設問一文学と劇文学の際につき知られるところを記されよ」という、たった一つの問いだけを課したというのです。学生は授業で学んだことなど、知る限りの知識を紙いっぱいに書き連ねるのですが、時間内に書ききれず、答案用紙の端に「神様助けて」などと書き加えた学生に対し、彼は「我神ならざらん」と応じ、なんと60点もの加点を与えたという逸話も残っています。こうした人間味溢れるエピソードは学生たちの間で評判となり、彼の授業は常に多くの学生で賑わっていたと伝えられています。小説家の館淳一氏も、出張講義に来た秋庭の授業を受けたことがあり、その際の和装姿や、剃り上げられた頭髪に触れつつ、その授業を「まことに面白かった」と振り返っています。

秋庭太郎は、1985年 3月17日、肺癌のため、東京都文京区の東京都立駒込病院にて死去しました。享年77歳でした。

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