聖セバスティアヌスと天使 (ギュスターヴ・モロー)

ギュスターヴ・モロー『聖セバスティアヌスと天使』：殉教と信仰の交響曲

ギュスターヴ・モローの代表作の一つ『聖セバスティアヌスと天使』（別名『殉教者としての洗礼を授けられる聖セバスティアヌス』）は、1876年頃に制作された油彩画です。現在、ハーバード大学フォッグ美術館に収蔵されているこの作品は、ローマ帝国時代の殉教者、聖セバスティアヌスを主題としています。

聖セバスティアヌスは、ディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害の時代、兵士として仕えていました。しかし、密かにキリスト教に改宗し、仲間を援助したことが発覚、弓矢による処刑を命じられます。奇跡的に致命傷を免れたセバスティアヌスは、聖イレーネの看病により回復しますが、信仰を公言したため、再び処刑されました。

モローの絵画は、この聖セバスティアヌスの殉教を、独特の幻想的な視点で表現しています。樹に縛られたセバスティアヌスの姿は、幾筋もの矢を受けているにもかかわらず、静謐さを保っています。彼の背後には、赤い翼を広げた天使が舞い降り、慈しむように聖人の顔を覗き込んでいます。天使の頭上には、血に染まった十字架が輝き、そこから滴る血は聖セバスティアヌスの肩を濡らします。画面下部には、聖人を助けようとした女性たちが、天使の出現に驚愕している様子が描かれています。

この作品における天使は、伝統的な聖セバスティアヌス像とは異なる表現です。通常、天使は聖人の頭上に冠や棕櫚の枝を差し出す姿で描かれることが一般的ですが、モローの天使は聖人の背後から回り込むように飛翔し、頭上には血の滴る十字架という異例な表現を用いています。

モロー美術館に残された素描から、「血の洗礼」という概念が読み取れます。これは、洗礼を受けていない者が殉教することで洗礼を受けたものと見なされるという考え方です。絵画における十字架から滴る血はキリストの血であり、聖セバスティアヌスはキリストの血によって洗礼を受けている、と解釈できます。この「キリストの血」は、モローの考える「殉教＝血の洗礼」という概念を視覚化したもので、絵画世界とは異なる次元からの介入と言えるでしょう。

モローは、テオドール・シャセリオーの死後、イタリアで数多くの聖セバスティアヌスの作品を目にしたと推測され、本作品は伝統的な図像を継承しつつも、独自の解釈を加えています。聖セバスティアヌスの片腕を上げた姿勢、殉教を賛美する天使などは、ルネサンス期の作品に見られる伝統的な表現です。しかし、天使の飛翔や血の滴る十字架といった表現は、モロー独自のものです。シャセリオーの『エチオピアの女王の宦官に洗礼を施す聖ピリポ』の天使の表現も、モローの作品に影響を与えたと考えられています。

1876年のサロンに出品されたこの作品は、当初『聖セバスティアヌス』というシンプルなタイトルでしたが、1906年の大回顧展では『殉教者としての洗礼を授けられる聖セバスティアヌス』と改められました。その後、多くのコレクターを経て、1943年にフォッグ美術館に遺贈されました。

さらに、岐阜県美術館には、この作品のヴァリアントが所蔵されています。トゥルニエ医師の依頼で制作されたこのヴァリアントは、フォッグ美術館の作品よりも抑制された表現で、血の十字架は星型の輝きに、天使の翼は青色に変更されています。画面構成も、フォッグ美術館の作品とは異なっています。

モローは、数多くの聖セバスティアヌスを描いており、その図像には、キリストの死や詩人といった他の主題との共通点が見られます。本作品は、モローの芸術世界を理解する上で重要な作品であり、その幻想的な表現と深い宗教観は、観る者を魅了し続けています。

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