行人

行人：夏目漱石の後期三部作を彩る人間ドラマ

夏目漱石の代表作の一つとして知られる『行人』は、1912年12月6日から1913年11月5日にかけて『朝日新聞』で連載された長編小説です。しかし、漱石の胃潰瘍による療養のため、連載は4月から9月まで中断されており、完成までには多くの困難が伴ったことが伺えます。翌1914年1月には単行本として刊行され、現在も多くの人々に読まれ続けている、漱石後期の代表的な作品の一つです。

『行人』は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の四部構成から成り、それぞれの章で異なる人間関係と心理描写が展開されます。漱石独特の繊細な文体と心理描写は、読者に登場人物の心情を深く理解させ、現代においても色あせない魅力を放っています。

第一部「友達」:主人公の二郎は、友人である三沢に会うため大阪を訪れます。しかし、三沢は病気で入院しており、二郎は彼を見舞ううちに病院で出会った女性に心を惹かれます。この女性と三沢の過去の接点、そして三沢の入院中に語られた「娘さん」という謎めいた存在の描写は、物語全体に不穏な影を落とします。

第二部「兄」:三沢と別れた後、二郎は母親、兄の一郎、そして兄の妻である直と共に大阪へ旅行します。一郎は妻である直の貞操を疑っており、二郎に直と二人きりで一晩過ごすよう依頼するという奇妙な行動に出ます。二郎は当初拒否するものの、結局は直と二人で嵐の夜を過ごすこととなり、複雑な人間関係が浮き彫りになります。

第三部「帰ってから」:東京に戻った後、一郎は二郎に嵐の夜のことについて繰り返し問い詰めます。二郎はそれを避けますが、一郎の執拗な追及は二人の間に深い溝を生み、二郎は家を出ることを決意します。この出来事をきっかけに、一郎の精神状態はさらに悪化していきます。

第四部「塵労」:二郎は一郎の精神状態を心配し、一郎の親友であるHに旅行へ連れ出すよう依頼します。Hは旅行中の一郎の様子を二郎に手紙で報告しますが、その手紙には一郎の苦悩が克明に綴られており、物語はクライマックスを迎えます。一郎の苦悩、そして家族関係の崩壊といったテーマは、近代社会における人間存在の脆さを浮き彫りにしています。

『行人』は単なる恋愛小説や家族小説にとどまらず、近代知識人の内面世界を深く掘り下げた作品です。登場人物たちの複雑な心理描写、そして謎めいた伏線は、読者に深い思考を促し、現代社会においても普遍的なテーマを提起しています。漱石文学の中でも特筆すべき作品の一つとして、多くの読者から愛され続けている所以でしょう。

主な登場人物:

長野二郎：物語の語り手であり主人公。一郎の弟。
長野一郎：二郎の兄。学者。妻の貞操を疑い、弟に奇妙な依頼をする。
直：一郎の妻。
三沢：二郎の友人。
* H：一郎の友人。

これらの登場人物は、それぞれが複雑な感情を抱え、互いに影響を与え合いながら物語を展開していきます。彼らの行動や心理描写を通して、漱石は近代社会における人間関係の複雑さと、人間の心の奥底に潜む闇を鮮やかに描き出しています。

『行人』は、漱石作品の中でも特に難解で、解釈が分かれる点も多い作品です。しかし、その難解さゆえに、何度も読み返したくなる魅力があるとも言えるでしょう。 漱石文学に興味のある方は、ぜひ一度読んでみてください。そして、それぞれの登場人物の行動や言葉の裏に隠された意味を、じっくりと味わってみてください。

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