身延川裏不二

葛飾北斎『冨嶽三十六景』「身延川裏不二」：独自の視点と表現

葛飾北斎の代表作として名高い『冨嶽三十六景』。その全46図の中に「身延川裏不二」は存在します。落款には「前北斎為一筆」とあり、北斎自身の作品であることを示しています。

富士山を望む風景？ 実際は…

この作品は、山梨県南巨摩郡身延町を流れる富士川（身延川）から富士山を望む風景を描いたとされています。しかし、研究者らの見解では、いくつかの点で疑問が提示されています。まず、実際の身延川からは富士山を視認するのが困難であること、絵画に描かれている河川の水量や幅が、身延川の実情と一致しないことが挙げられます。

絵画には、波打つ急流が流れ、山深い脇道を旅人や駕籠、馬子が行き交う様子が描かれています。この様子から、久遠寺周辺の景観が描かれているという推察もされています。また、富士山の手前には高く切り立った岩山が描かれていますが、この山は実在しないと考えられています。北斎は、富士山の存在を意図的に矮小化させるために、この岩山を配置したのではないかと推測されています。

「裏不二」の意味と北斎の意図

「裏不二」とは、山梨県側から見た富士山の北麓を指す一般的な呼称です。しかし、『冨嶽三十六景』の中で富士山の北麓を描いた作品は複数ありますが、「裏不二」と題されたのはこの作品のみです。

この理由について、日野原健司氏は、身延川近辺が江戸から見て富士山と正対した地点に当たるためではないかと推察しています。これは、北斎が富士山と江戸の位置関係を意識して、この場所を選んだ可能性を示唆しています。

一方、『冨嶽三十六景』には、黒摺十図と呼ばれる追加で摺られた作品群があり、それらを指して「裏富士」と呼ぶ場合があります。「身延川裏不二」はこの黒摺十図の1枚にあたり、この文脈で「裏富士」と呼ばれている可能性も考えられます。

北斎の表現力

「身延川裏不二」は、正確な地形的描写にとらわれることなく、北斎独自の視点と表現技法によって制作された作品であると考えられます。実際とは異なる河川や岩山の描写、そして富士山を意図的に小さく描くことで、北斎は独特の風景を作り出しています。これによって、単なる風景画を超えた、北斎独自の芸術表現が実現されています。

この作品は、北斎の風景描写における卓越した表現力、そして富士山に対する独特の解釈を示す重要な作品と言えるでしょう。彼の想像力と大胆な表現は、現代においても鑑賞者を魅了し続けています。 絵画に込められた北斎の意図を深く探ることで、新たな解釈が生まれる可能性も秘めています。

参考文献

日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年
* 『版画芸術』 203巻、阿部出版、2024年

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