途上

谷崎潤一郎『途上』：巧妙なプロバビリティーの犯罪と、読み解かれる人間の深層心理

谷崎潤一郎の短編小説『途上』は、1920年（大正9年）、雑誌『改造』新年文藝大附録に発表され、後に単行本『AとBの話』に収録されました。本作は、殺意を直接的に表現せず、事故や病気といった偶然の出来事を巧みに利用して、被害者の死亡確率を高める「プロバビリティーの犯罪」を描いた、日本における推理小説の先駆けとして知られています。

物語のあらすじ

物語は、東京・金杉橋の電車通りを散歩するサラリーマン、湯河勝太郎が、私立探偵の安藤一郎に声をかけられるところから始まります。安藤は、湯河の身辺調査を行い、彼の先妻・筆子の死の真相を探ります。筆子は病弱であり、生前に何度も死の危険に瀕していました。パラチブス、風邪、スペイン風邪、ガス漏れ事故、電車との衝突事故など、数々の出来事が重なり、最終的にチブスで亡くなっています。

安藤は、一見すると妻を心配するがゆえの行動に見えた湯河の言動に矛盾点を指摘します。例えば、流行性感冒の感染を恐れて乗合自動車を勧めたこと、その際一番前を推奨したことなどです。当時、乗合自動車事故が多発していたことを考慮すると、一番前が最も危険であったこと、また回復後の筆子は再感染リスクが低かったことを安藤は指摘するのです。これらの「親切」に見える行為が、実は筆子の死を間接的に招いた可能性を示唆するのです。

安藤は、さらに別の妻殺しの例を語り、心臓の弱い妻を、酒やタバコ、冷水浴、チブス感染の可能性のある生水や刺身などを勧めることで、徐々に弱らせていった夫の策略を説明します。この巧妙な計画は、第三者には気づかれにくいものです。

そして安藤は、湯河が先妻の筆子の死の二、三年前から、現在の内縁の妻・久満子と愛人関係にあったことを指摘します。物語は、水天宮近くの安藤の探偵事務所でクライマックスを迎えます。安藤の推理に青ざめる湯河の姿が描かれ、物語は幕を閉じます。

登場人物

湯河勝太郎: T・M株式会社員。法学士。
筆子: 湯河の先妻。病弱。
久満子: 湯河の内縁の妻。
安藤一郎: 私立探偵。

解釈と評価

『途上』は、発表当時、必ずしも高い評価を得たわけではありませんでした。しかし、江戸川乱歩は、本作を高く評価し、「プロバビリティーの犯罪」という概念を提唱しました。『D坂の殺人事件』や『赤い部屋』など、乱歩の作品にもその影響が見られます。

しかし、谷崎自身は、乱歩によるこの評価にやや違和感を持っていたようです。

作品における湯河の殺意の有無については、様々な解釈がなされています。安藤の推理は状況証拠に基づいており、客観的な証拠は提示されていません。湯河の心理描写も乏しく、安藤の推理が正しいのかどうかは、読み手によって異なる解釈が可能です。

有吉玉青は、湯河に意識的な殺意はなかったものの、無意識のレベルでは妻の死を願っていた可能性を示唆しています。一方、北村薫は、あくまで「周到極まる計画犯罪」であると指摘しつつも、有吉の解釈の魅力を認めています。谷崎自身は、発表から10年後、湯河の心理について言及し、明確な殺意があったことを明言しています。

「妻殺し」というモチーフ

『途上』を含む、谷崎潤一郎が同時期に発表したいくつかの作品には、「妻殺し」という共通のモチーフが登場します。この背景には、谷崎自身の私生活における夫婦関係の悪化が影響しているのではないかという見解もあります。

まとめ

『途上』は、巧妙なプロバビリティーの犯罪、曖昧な状況証拠、そして深く探られる人間の深層心理を描いた、傑作短編小説です。その解釈は多様であり、現代においても多くの議論を呼んでいます。日本推理小説史に大きな足跡を残した作品として、今後も読み継がれていくことでしょう。

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