長谷川和夫

日本の認知症医療を拓いたパイオニア：長谷川和夫

長谷川和夫氏は、日本の医学者であり精神科医として、特に老年精神医学および認知症分野において多大な功績を残しました。1929年に愛知県に生まれた長谷川氏は、東京慈恵会医科大学を卒業後、キリスト教関連団体の支援による留学生派遣プログラムに選ばれ渡米。米国の著名な精神科病院で精神医学や脳波学の研鑽を積みました。帰国後は、性犯罪者の精神医学的研究で医学博士号を取得。東京都老人総合研究所心理精神医学部長を経て、聖マリアンナ医科大学で教授、学長、名誉教授、理事長などを歴任。晩年には認知症介護研究・研修東京センターのセンター長も務めるなど、一貫して高齢者の精神医療、特に認知症の問題に取り組んでこられました。

長谷川氏の功績の中で最も広く知られているのが、「長谷川式認知症スケール」(HDS)の開発です。これは、簡単な質問によって認知症の疑いを迅速に評価できる世界的に見ても早期の簡易検査法であり、その後の改訂版（HDS-R）は日本の認知症診断において長年にわたり最も標準的なツールのひとつとして活用され続けています。

また、社会的な課題であった認知症への偏見を是正するため、長谷川氏は厚生労働省の検討会委員として重要な役割を果たしました。そこで彼は、当時差別的なニュアンスを含むとされた「痴呆」という名称を、中立的でより疾患の本質を表す「認知症」へ変更することを強力に推進。この名称変更は、社会の認知症に対する見方を変える大きな一歩となりました。

長谷川氏は、「誰もが年を重ねれば認知症と向き合う可能性がある。だからこそ、認知症になっても孤立せず、尊厳を持って暮らせる『認知症になっても大丈夫な社会』を築くことが重要だ」と、生涯にわたり社会へ提言し続けました。その活動は、医療や介護の現場だけでなく、一般市民の認知症への理解を深めることにも大きく貢献しました。

彼の人生において特筆すべきは、2018年に自らが認知症と診断された事実を公表したことです。当初は自身もアルツハイマー型認知症を疑いましたが、後に嗜銀顆粒性認知症と診断されました。この公表は、認知症に対する社会の無関心や誤解を打破したいという強い願いからでした。公表後、長谷川氏は認知症当事者としての経験を隠すことなく語り、多くのメディアに出演。認知症とともに生きる日々の葛藤や工夫、そして希望を率直に伝えました。

2018年には、認知症への理解を深めるための絵本『だいじょうぶだよ ぼくのおばあちゃん』を出版。
2020年にはNHKスペシャルで自身の認知症について語り、大きな反響を呼びました。

これらの活動は、「認知症は終わりの始まりではない」「認知症になっても心は豊かに生きられる」というメッセージを広く社会に届け、多くの人々が認知症についてオープンに語り合い、考えるきっかけを作りました。長谷川氏は、自身が提唱してきた「認知症になっても大丈夫な社会」を、自らの人生をもって体現しようとしたのです。

長谷川和夫氏は、老年精神医学の研究者として、臨床医として、そして晩年には認知症当事者として、日本の認知症医療・介護・社会啓発の道を切り拓きました。その功績により、2005年には瑞宝中綬章を受章。2021年11月13日、老衰のため92歳で逝去されましたが、彼の残した功績と「大丈夫だよ」という温かいメッセージは、今なお多くの人々の心に生き続けています。没後、従四位が追贈されました。

彼の著書は専門書から一般向けの啓蒙書まで多岐にわたり、認知症だけでなく高齢者の心理や精神健康に関する多くの書籍を世に送り出しました。代表的な著書には、『ボクはやっと認知症のことがわかった』、『認知症でも心は豊かに生きている』などがあります。

長谷川和夫氏の生涯は、日本の認知症を取り巻く環境が大きく変化する過程と重なり、その変化の中心には常に彼の姿がありました。彼の貢献は、今日の日本の認知症ケアの礎となっています。

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