静かな生活

静かな生活

『静かな生活』（しずかなせいかつ）は、作家・大江健三郎による連作小説集です。1990年に講談社から単行本として刊行され、後に講談社文芸文庫にも収められました。この作品は、同名の表題作をはじめとする6編の連作で構成されており、それらは主に『文藝春秋』『群像』『Switch』『新潮』『文學界』といった文芸誌に1990年3月から8月にかけて掲載されたものです。

作者が以前に手掛けた『新しい人よ眼ざめよ』でも扱われた、知的障害を持つ子との「共生」という主題が、今作では妹である「私」の視点を通して改めて深く掘り下げられています。

物語の概要

物語は、著名な作家である父と母、そして受験浪人生の弟オーちゃん、さらに知的障害がありながら作曲の才能を開花させつつある兄イーヨーと共に暮らす、大学仏文科の女子学生「私」（マーちゃんという愛称で呼ばれる）を主人公に進みます。

「私」の20歳の誕生日、家族団らんの中で結婚の話題が出た際、「私」は将来イーヨーと一緒に暮らすことを前提とし、「イーヨーと一緒だから、少なくとも2DKのアパートを手に入れられる人のところね。そこで静かな生活がしたい。」と語ります。この発言は両親に衝撃を与え、「私」は将来一人取り残されたような孤独な夢を見ることになります。

父が中年の危機に直面し、立ち直りのきっかけを求めて居住作家（ライター・イン・レジデンス）として母と共にカリフォルニアの大学へ渡ると、「私」は家を預かり、イーヨーや弟の面倒を見る立場となります。父の友人でイーヨーの作曲指導も行う重藤さん夫婦が、彼女たちの生活を精神的、実質的に支えてくれます。

社会における知的障害者への困難な現実、すなわち路上などで突然向けられる差別や悪意に直面したとき、兄を深く思う「私」は「なにくそ、なにくそ！お先真暗でも、元気を出して突き進もうじゃないか！」と心の中で叫び、果敢に立ち向かいます。イーヨーの生まれ持ったユーモアも、「私」の心の支えとなります。

しかし、「私」は見た目に反して繊細で、物事を深く考え込んでしまう傾向があります。時には気丈に振る舞えないほど落ち込み、エネルギーを使い果たして「自動人形化」してしまうこともあります。イーヨーの音楽の才能を目の当たりにする中で、「私」は自分はイーヨーを特別な存在として見ており、彼にどこまでも寄り添おうとする自分自身を「取るに足らない人間ではない」と考えていたのではないか、それは傲慢さではないかという厳しい自己省察を行います。

大学では、卒業論文のテーマにフランスの作家セリーヌを選びます。セリーヌが自伝的小説の中で「私たちの小さな白痴たち」と呼んだ知的障害のある子供たちと共に戦火を生き延びようと奮闘し、感傷を排した真の優しさを示す姿に、「私」は深い共感を覚えるのです。

ある日、「私」はイーヨーを連れて父が契約している会員制プールへ通い始めます。そこで出会った青年、新井くんはイーヨーに親切に水泳を教えますが、実は彼は過去に父の小説で悪く描かれたことを恨んでいました。巧みな言葉で新井くんの自宅に誘い込まれ、危険にさらされた「私」は、危機一髪のところでイーヨーに助けられます。この事件を機に、アメリカにいた母が父を残して急遽帰国し、家族4人での新たな生活が始まります。

映画版

この小説は、1995年に大江健三郎の義兄にあたる伊丹十三によって監督・脚本で映画化されました。映画は両親の不在中に起こる、知的障害のある兄と妹の日常を中心に描いています。キャストには佐伯日菜子（マーちゃん）、渡部篤郎（イーヨー）、山﨑努（パパ）、柴田美保子（ママ）らが名を連ねています。

イーヨー役を演じた渡部篤郎は、日本アカデミー賞で新人俳優賞と優秀主演男優賞を受賞しました。映画音楽には、大江健三郎の実子である大江光が作曲した楽曲が使用されています。

映画の興行成績は振るわず、伊丹十三の監督作品としては一般にはあまり知られていないものとなりました。伊丹自身は、前年の大江健三郎のノーベル文学賞受賞が、原作や大江光の音楽の売上には貢献しても、映画の観客動員には繋がらなかったと分析しています。批評家・四方田犬彦は著書『アジアのなかの日本映画』の中で、この作品における伊丹監督の作風の変化と、それに不機嫌を示して映画評論から身を引いた蓮實重彦の関係について言及しています。

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