Kの昇天

梶井基次郎『Kの昇天』

『Kの昇天』は、梶井基次郎によって書かれた短編小説であり、『Kの昇天――或はKの溺死』という副題が付けられています。この作品は、書簡体形式で、夜の海岸で出会ったK君という青年が、満月の光に映る自分の影から現れたドッペルゲンガーに導かれて昇天していく様子を描いています。自我の分裂と魂の昇天という神秘的なテーマを扱いながら、死を予感していた作者自身の心情が反映された、ファンタジックでミステリーの要素も持つ作品です。

発表と背景

この作品は、1926年（大正15年）に同人誌『青空』に発表され、その後、1931年（昭和6年）に作品集『檸檬』にも収録されました。作中には、「九月十八日 飯倉片町にて」という記述があり、作者が執筆した場所と日時を示唆しています。

また、海外でも翻訳されており、英語題は「The Ascension of K, or K's Drowning」、フランス語題は「L'ascension de K」として出版されています。

あらすじ

物語は、「私」がN海岸で転地療養中にK君と出会い、親しく交流するところから始まります。「私」は回復して先に去りますが、K君は病状が悪化している様子でした。その後、「私」はK君が溺死したという知らせを受け取ります。K君の知人である「あなた」からの手紙には、K君の死が事故か自殺か分からず、もし自殺ならば原因は何なのか悩んでいる様子が綴られていました。「私」は「あなた」へ、K君の死の謎について思い当たることを書き送りながら、「影」に憑かれていたK君との日々を回想します。

満月の夜、「私」は海岸で自分の影を見つめるK君に出会います。K君は、月光によって形作られた自分の影をじっと見ていると、影が人格を持ち始め、自分が月に昇っていくような感覚になると語ります。その感覚は阿片のようであり、現実世界が身に合わなくなるとも言います。しかし、月に行こうとしても、イカロスのように落ちてしまうと苦笑します。月が欠け始めると、K君は海岸に姿を見せなくなり、影について考察するようになります。そして、「私」がその地を去った後、K君は溺死したという知らせが届きます。

「私」は、K君が自殺したとは考えられず、K君の魂が月へ昇っていったのではないかと感じます。K君が溺死した夜は満月であり、「私」はK君が砂浜の影に表出された自分自身を見て、魂が月へ昇っていき、肉体は影に導かれて海へ入っていったのではないかと想像します。もし魂が墜落して身体に戻っていれば、K君は溺れることはなかっただろうと。「私」は手紙の最後に、K君の魂は月へと飛翔し去っていったのだと「あなた」に書き綴ります。

登場人物

私: 病気療養のためにN海岸に滞在し、K君と出会う人物。K君の死後、友人から手紙を受け取り、返信する。
K君: 病気療養中にN海岸で溺死する青年。月光に魅せられ、自分の影に人格を感じる。
* あなた: K君の友人らしき人物。「私」に手紙を送り、K君の死の原因について悩みを打ち明ける。

作品の背景と分析

梶井基次郎は、『Kの昇天』を書く前に、新潮社からの依頼を断っていましたが、『青空』の同人からの冷たい態度に落胆していました。その後、執筆に取り組み、書簡体形式を思いついたことで、一気に書き上げることができました。

この作品には、作者自身のドッペルゲンガー体験が反映されています。梶井基次郎は以前、『泥濘』という作品の中で、月光に照らされた自分の影に〈生なましい自分〉を発見し、その姿を〈月のやうな位置からその自分を眺めてゐる〉という体験を綴っています。

また、作品には、シューベルトやハイネ、シラノ・ド・ベルジュラック、ジュール・ラフォルグなど、作者が親しんできた音楽や文学からの影響が見られます。特に、シューベルトの歌曲「海辺にて」と「影法師」や、シラノ・ド・ベルジュラックの月の場面、ラフォルグの詩「月光」などが、作品の着想に影響を与えていると考えられます。

作品の評価

『Kの昇天』は、幻想文学として高く評価されており、多くのアンソロジーに収録されています。池内紀は、K君が月へ登っていく描写を「まるで黒い小悪魔に引かれるように」と評し、川本三郎は、「世紀末文学に通じる美しく病める感受性」が看取できる作品だと評しています。

島村輝は、語り手の〈私〉がK君の〈溺死〉の意味を〈昇天〉として語ることによって、〈私〉自身がそこにどう関わっているのかという「別の何かを《告白》しようとしている」と考察しています。

柏倉康夫は、Kの目的を、「意識のトリックによる現実の変様などではなく、別の世界、身体が消滅し魂だけが存在する理想世界への離脱」であると解説しています。

このように、『Kの昇天』は、幻想的な美しさと深遠なテーマを持つ作品として、多くの読者や研究者から愛されています。

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