遠眼鏡

葛飾北斎の大首絵『遠眼鏡』：江戸時代の視覚と女性像

葛飾北斎の代表作として知られる『富嶽三十六景』とは異なる魅力を持つ、大首絵『遠眼鏡』。この作品は、享和年間（1801年から1803年頃）に制作されたと推定され、シリーズ名『風流無くてなゝくせ』の一部として構想されたと考えられています。シリーズ全体では、女性が持つ七つの癖を表現した絵画群が計画されていたと推測されますが、現存するのは『遠眼鏡』と『ほおずき』の二点のみです。

望遠鏡：舶来技術と庶民への普及

『遠眼鏡』という題名からも分かる通り、本作品の中心モチーフは望遠鏡です。望遠鏡は17世紀初頭にオランダで発明され、日本には17世紀初頭に伝来しました。当初は幕府要職者を中心に用いられましたが、徐々に一般にも普及し、18世紀には国産化も進みました。長崎では、浜田弥兵衛がオランダから眼鏡製作技術を持ち帰り、広めたと伝えられています。『長崎夜話草』や『万金産業袋』などの文献には、国産と輸入された望遠鏡の比較なども記されており、当時の望遠鏡事情を知る上で貴重な資料となっています。輸入量・生産量の増加に伴い、望遠鏡は風光明媚な観光地などで庶民にも体験できるものとなり、絵画作品にもその様子が描かれるようになりました。円山応挙など、絵画制作に望遠鏡を利用する画家の登場も、その普及ぶりを示しています。北斎自身も、享和4年（1804年）刊行の狂歌絵本『山満多山』で望遠鏡を覗く女性を描いています。

『遠眼鏡』：画面構成と解釈

『遠眼鏡』は、蔦屋重三郎版元から刊行された大判錦絵です。雲母摺という技法を用いており、北斎作品の中でも珍しい存在です。画面には、日傘を差す年配の女性と、望遠鏡を持つ若い女性の胸像が描かれています。年配女性の容姿は、眉を剃り、鉄漿（かね）を塗っていることから、武家の既婚女性であることを示唆しています。一方、若い女性は派手な髪飾りで、未婚の女性であることが分かります。衣装から、花見に訪れた母娘と推測され、娘が望遠鏡で男性を観察している様子が描かれています。母親は、娘の行動をたしなめるように日傘を傾けていると解釈することもできます。神戸市立博物館は、北斎の川柳「皮切りといふ面で見る遠眼鏡」が本作品を表しているのではないかと推測しています。

『風流無くてなゝくせ』シリーズと北斎の表現

『遠眼鏡』は、北斎が確立した「宗理風」と呼ばれる美人画様式で描かれています。この作品は『風流無くてなゝくせ』というシリーズの一部と考えられていますが、その全貌は明らかではありません。このシリーズ名は、どんな人物にも多少の癖があるという「無くて七癖」のことわざに由来すると推測されています。それぞれの作品で、女性の持つ様々な癖が表現されていた可能性があります。『遠眼鏡』では、新しい技術である望遠鏡に夢中になる若い女性の姿を通して、当時の女性の心理や、新しいものへの好奇心を表現していると考えられます。

まとめ

『遠眼鏡』は、単なる美人画としてだけでなく、江戸時代の技術革新や庶民の生活、女性の心理といった様々な側面を反映した作品です。雲母摺という技法や、北斎独自の美人画様式も相まって、その芸術的な価値は高く評価されています。この作品は、私たちに江戸時代の文化や社会、人々の暮らしを深く考えるきっかけを与えてくれます。シリーズの全容は不明な点も多いですが、現存する作品から、北斎の多様な表現と、当時の人々の生活の一端を垣間見ることができます。

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