おとら狐

おとら狐：長篠の戦いの記憶を宿す妖怪

愛知県新城市に伝わる妖怪「おとら狐」は、人間に憑依し、奇異な行動を引き起こすといわれる狐の精です。その名は、かつて狐に憑依された「おとら」という女性に由来するともいわれます。おとら狐は、単なる狐憑きではなく、歴史的な出来事と深く結びついた、地域特有の妖怪として知られています。

長篠の戦いと深く関わるおとら狐

おとら狐の伝承は、戦国時代の激戦、長篠の戦いへと遡ります。この戦いで、多くの兵士が命を落としたとされます。おとら狐に取り憑かれた者は、左目から目やにを流し、左足に病気を発症するという特徴が見られます。これは、流れ弾を受けた傷痕を反映しているという説があります。また、憑依された者は、長篠の合戦や自身の身の上話を繰り返し語るようになり、その記憶が妖怪を通して語り継がれているかのようにも感じられます。

憑依された人間の異変

1916年に愛知県の郷土研究社が発行した『郷土研究』には、おとら狐に取り憑かれた人々の様々な様子が記録されています。

ある老人は、歯がないにもかかわらず、生魚をバリバリと音を立てて食べていたと伝えられています。
寝たきりだった老婆が憑依され、一晩中踊り明かしたのちに亡くなったという悲しい伝承もあります。
* 病気療養中の母親が憑依された事例では、排泄物の中に、通常では考えられない異物が混じっていたと記録されています。これらの奇怪な症状は、おとら狐の憑依によるものと考えられています。

これらの記録は、おとら狐の憑依が、単なる精神的なものではなく、身体的な症状を伴う現象であることを示唆しています。憑依された者の異常な行動や症状は、おとら狐の霊力、あるいは長篠の戦いの悲惨な記憶が反映されていると考えられています。

おとら狐の鎮魂と除霊

おとら狐は、本来長篠城の稲荷社の使いだったと伝えられていますが、長篠の戦後、社が放置されたことを恨んで人々に憑依するようになったと言われています。そのため、後にその霊を鎮めるため、長篠城の城藪稲荷におとら狐が祀られるようになりました。現在では、その社は愛知県新城市の大通寺に移されています。

憑依された場合の対処法として、『郷土研究』には、まず陰陽師や修験者に祈祷を依頼することが記されています。それでも効果がない場合は、秋葉山の奥に住む山住様（御犬様）を招くことが推奨されています。犬神は、おとら狐の部分のみを食べてくれると信じられていたようです。ただし、犬神に頼む際には、家族や家で飼っている動物の名前をすべて告げなければ、名前を挙げられなかった者は、おとら狐の被害を受けてしまうという注意書きも残されています。

おとら狐の伝承が持つ意味

「おとら狐」の伝承は、単なる妖怪話にとどまりません。長篠の戦いの悲劇、そして、戦後の人々の苦悩や不安、地域社会の信仰などが複雑に絡み合った結果として生まれた物語です。おとら狐の憑依という形で表現されるこれらの感情や記憶は、歴史と信仰が深く結びついた、地域社会の独特な文化の一端を垣間見せてくれます。現在でも語り継がれるおとら狐の伝承は、地域の歴史と人々の心のありようを深く理解するための貴重な資料と言えるでしょう。

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