すみれ (モーツァルト)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの歌曲の中でもとりわけ愛される一曲に、『すみれ』K.476があります。正式なドイツ語タイトルは「ダス・ファイルヒェン」（Das Veilchen）です。作品名としては、しばしば平仮名で『すみれ』と表記されますが、漢字で『菫』と書かれることもあります。

この作品は、1785年6月8日にウィーンで生まれました。どのような意図で作曲されたのか、その詳しい経緯は明らかではありません。しかし、モーツァルトはこの小さな歌曲に特別な工夫を凝らしています。一般的な有節歌曲、つまり詩の各連を同じ旋律で歌う形式とは異なり、詩の内容や展開に合わせて音楽も変化させていく「通作形式」で作曲されています。これは、各連ごとに曲想や調性を変え、詩の物語に即応した音楽的な描写を行うというアプローチです。短い作品ながら、この手法によって、豊かな叙情性と劇的な表現が見事に調和した、完成度の高い芸術作品となっています。詩句に寄り添った細やかな音楽表現は、聴く者に深い感銘を与えます。この1785年頃の作品に見られるこのような特徴は、モーツァルトが歌曲というジャンルに対して、より深い芸術的な探求を試みるようになった可能性を示唆していると考えられています。

この歌曲の歌詞は、ドイツを代表する文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの有名な詩に基づいています。興味深いことに、数多くの詩を書いたゲーテの作品の中で、モーツァルトが付曲したのは、この『すみれ』が唯一の例とされています。詩の内容は、野辺にひっそりと咲く小さなスミレが主人公です。このスミレは、近くを歩く可憐な少女の姿を見つけ、彼女に摘み取られてその胸に飾られることを切に願います。しかし、少女はスミレに気づかず、無情にもそれを踏みつけて通り過ぎてしまいます。それでもなお、スミレは「踏みつけられても、彼女を通して死ねるなら幸せだった」と感じるという、切なくも純粋な願いと自己犠牲が描かれています。ゲーテ自身はこの詩を「バラード」に分類しています。モーツァルトは作曲にあたり、オリジナルの詩の結びに2行を付け加えており、これにより音楽的な締めくくりと、スミレの儚い願いに対する感情の余韻をより一層深める効果をもたらしています。

『すみれ』は、その美しい旋律と感動的な詩の内容、そしてモーツァルトの巧みな作曲技法によって、今日まで世界中の声楽家によって歌い継がれています。数多くの著名な歌手がこの作品を録音しており、例えば、ドイツのソプラノ歌手エディト・マティスとピアニストのベルンハルト・クレーによる録音などが広く知られています。

このように、『すみれ』K.476は、モーツァルトがゲーテの詩に息吹を与え、短い形式の中に豊かな音楽的表現と深い感情を凝縮させた、珠玉の歌曲と言えるでしょう。その楽譜は現在、パブリックドメインとして広く公開されており、音楽研究者や演奏家にとって容易に入手可能です。

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