ながい旅

大岡昇平『ながい旅』：戦犯裁判に挑んだ男の軌跡

大岡昇平の小説『ながい旅』は、1981年に新聞連載され、翌年に単行本として刊行されました。この作品は、第二次世界大戦後の戦犯裁判で絞首刑となった陸軍中将・岡田資をモデルに、彼の法廷闘争と、その背景にある歴史的、人間的な葛藤を描いた長編小説です。

作品成立の背景

大岡昇平は、1965年に岡田資の遺稿『毒箭』と追悼文集『巣鴨の十三階段』に触れ、強い感銘を受けました。1968年頃から伝記執筆を構想していましたが、裁判記録がアメリカで公開されておらず、断片的な情報しか得られなかったため、執筆を断念せざるを得ませんでした。しかし、1973年に雑誌『波』で「一人の日本人」を執筆し、岡田資の遺稿から事件の概略を紹介しています。

その後、アメリカの国立公文書館で裁判記録が公開され、中日新聞がその記録を入手したことで、大岡は詳細な事実関係を知ることができ、執筆が可能になりました。『ながい旅』というタイトルには、戦後36年という長い歳月を経て裁判記録が公開されるまでの時間の経過が込められています。

大岡が岡田資に惹かれたのは、彼が横浜軍事法廷で本土決戦の延長として戦おうとした姿勢と、日蓮宗の信仰に基づく独特の死生観に共感したからだと、作中で述べています。

作品の発表経過

『ながい旅』は、1981年9月9日から12月29日まで、中日新聞と東京新聞の朝刊で連載されました。当初は100回の予定でしたが、好評により10回延長されました。連載開始に先立ち、9月4日の両紙には、大岡の言葉が掲載され、岡田資への長年の関心と、連載小説実現への喜びが述べられています。

初版は1982年5月に新潮社から刊行され、その後、1986年に新潮文庫、2007年に角川文庫から再刊されました。各文庫版は後に電子書籍化もされています。

あらすじ

物語は、著者である大岡昇平が、昭和40年（1965年）に岡田資の遺稿に触れたところから始まります。岡田中将は、B級戦犯として横浜軍事法廷で絞首刑となった人物ですが、裁判を日蓮宗の法戦と捉え、果敢に戦いました。大岡は、多くの資料がアメリカにあったため、取材も難航しましたが、様々な人の助けを得て新聞連載として書き始めました。

岡田中将は、戦時中、東海地方を管轄する第13方面軍司令官として、国際法違反の無差別爆撃を行ったB29搭乗員38名を処刑しました。戦後、この処刑が問題となり、戦犯として裁判にかけられることになります。当初、岐阜に収容中に米軍機の爆撃で全員爆死したことにする「岐阜案」も検討されましたが、岡田中将は事実を隠蔽することを潔しとせず、真実を語ることを選びました。

東京から派遣された山上法務少将による事前調査が行われましたが、大岡は、この調査を米軍に迎合する事大主義の表れ、また法務科将校の報復心によるものと捉えています。岡田資らは、B29搭乗員を戦争犯罪人として捉え、捕虜として軍法会議で裁かれる前に、軍律会議で裁かれるべきだと主張していました。しかし、当時の状況では通常の手続きを取ることができず、略式の軍律会議で処刑せざるを得なかったとしています。

ところが、山上法務少将の二度目の訪問の際に、O法務少将が自殺します。O少将の遺書には、27名の処刑について、自身は知らなかったと書かれていました。この遺書と、山上少将が岡田資との激しいやり取りで作成した調書が、岡田資の法廷闘争を厳しいものにしました。

大岡は当初、O少将の遺書の内容を伏せていましたが、連載が進むにつれて、遺書の内容を明らかにしました。そこには、大西大佐が顛末書の一部を変更し、O少将に軍律審判手続の省略について同意を求め、さらに参謀長らが無理やり同意を迫ったという経緯が記されていました。これに対し、岡田資はO少将が嘘をついていると主張し、法廷で激しく争いました。

法廷では、米軍機搭乗員が国際法上の不法行為である無差別爆撃を行ったことを証明するため、被害を受けた日本人を証人として呼びました。その中には、神戸の孤児院の院長も含まれており、空襲で多くの子供たちが亡くなったことを証言しました。

判決は、昭和23年5月19日に下され、岡田資は全ての訴因で有罪、絞首刑となりました。他の被告も有罪判決を受けましたが、後に減刑されました。大岡は、岡田資が死刑判決を受けたことで、他の被告が減刑されたと考えています。岡田資の釈放運動も行われましたが、刑は執行されました。大岡は、右翼による釈放運動がマッカーサーの反感を買ったのではないかと考えています。

大岡は、判決には連合国軍の都合もあるとしながらも、岡田資の法廷闘争は、無差別爆撃の違法性や軍律会議で裁いたことの意義が認められたという点で、勝利したと考えています。

作品の評価

評論家の亀井秀雄は、法廷での論争を「ドラマティック」と評価し、岡田資の人間性を称賛しました。一方で、作家の武藤功は、岡田資を肯定的に描きすぎたことで、戦争の批判性を弱めてしまったと指摘しています。また、作家の大西巨人は、本作を大岡の他の作品と比較して、「文学的に低い評価」を下し、大岡が岡田資に「同胞的情誼」をもって接していると指摘しています。

大岡は、作品発表後、岡田資の神話化を自戒し、新潮文庫版では「恐らく苦い真実は、岡田司令官の感想と山上証言との間にあった」という一文を挿入しました。根岸泰子は、この改訂によって、作品のテーマの未了性がより強く感じられるようになったと評しています。

真相

岡田資の死刑判決については、軍法会議ではなく軍律会議で裁いたことが違法とされた、あるいは、略式の軍律会議であったことが問題とされたと解釈されることが多いですが、法務省の調査で、事件の真相が明らかになりました。

それによれば、事件の対策会議が終戦翌日には行われ、保田少佐が対策案を作成、岐阜案と事実に基づいた案を提出。関係者は岐阜案の実行に不安を感じたため、事実に基づいた案を採用することになったといいます。しかし、軍の立場を有利にするため、保田がストーリーを準備、法務部は当初は納得したものの、O法務少将の自殺により、その協力は得られなくなりました。実際には、略式軍律会議なるものは存在せず、岡田中将がデッチ上げたものである可能性が高いことが指摘されています。

弁護人の佐伯弁護士は、岡田資が法廷闘争の中で達観し、最終的には責任を負ったとしていますが、『「BC級裁判」を読む』では、このストーリーによって名誉を傷つけられた人がいるとして、岡田資の姿勢を批判しています。また、佐伯弁護士は「米人検事は略式軍律（の話）が弁護対策に作為されたものであることは感じ取っていた」と語っています。

大岡自身も、「東海軍はあまりに話の辻褄が合いすぎていた」という検事の言葉を引用し、この点について疑念を示唆しています。2007年の角川文庫版では、略式手続きに関する記述は一切なくなり、単に「軍律会議は開かれなかった」と書かれています。

このB29搭乗員の処刑は、東京の陸軍中枢からの指示で密殺された可能性が高いとされています。岡田中将が陸軍大臣に感謝されたという事実からも、その可能性は否定できません。

映画化

2008年には、小泉堯史監督、藤田まこと主演で「明日への遺言」として映画化されました。

まとめ

『ながい旅』は、戦犯裁判という重いテーマを扱いながら、その中で人間の尊厳と責任、そして真実を追求する姿勢を描いた作品です。大岡昇平の緻密な取材と、歴史への深い洞察に基づいたこの小説は、現代においても多くの読者に感動を与え続けています。

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