アビリーンのパラドックス

アビリーンのパラドックスとは、ある集団が何かを決定したり行動したりする際に、メンバー個々人の真の意向や好みとはかけ離れた結論に至ってしまう状況を指す社会心理学的な現象です。

これは、集団の各メンバーが「おそらく他の皆は賛成しているのだろう」あるいは「自分の考えは少数派に違いない」と勝手に思い込み、本心では反対であっても異議を唱えずに同調してしまう結果、誰の望みでもなかった決定が下されてしまうというメカニズムで説明されます。集団内の個々人が抱く誤解や不安が、皮肉にも全員が望まない結果を招くという、人間の行動におけるパラドックスを鮮やかに示しています。

概要

このパラドックスの概念は、経営学者のジェリー・B・ハーヴェイ（Jerry B. Harvey）によって提唱されました。現象の名称は、彼がこの問題を分かりやすく説明するために用いた小話の中で登場する、テキサス州のアビリーンという町に由来しています。この小話では、家族が誰も行きたくないはずのアビリーンへの退屈なドライブに、互いの気持ちを推測し合って結局全員で行ってしまう様子が描かれ、パラドックスの本質が示されています。

集団思考との関連

アビリーンのパラドックスは、広義の集団思考（Groupthink）の一形態として理解することができます。集団思考は、集団内で意見の一致を過度に重視するあまり、批判的な思考や多様な意見が抑制され、非合理的な決定が下される現象です。アビリーンのパラドックスも、メンバーが自己の意見を抑制し、他者の意向を誤解することによって発生するため、集団が陥りやすい意思決定の罠の一つと言えるでしょう。

ハーヴェイは、このパラドックスが発生する背景には、以下の5つの要素が存在すると指摘しています。

集団と個人の認識のズレ
集団全体としては現状に対して不満があるかのように振る舞うにもかかわらず、実際にはメンバー個々人は現状にそれほど不満を感じておらず、むしろ提案されている代替案よりも現状維持を望んでいることもあります。この集団としての態度と個人の本音との間の認識のズレが、問題の出発点となります。

非効率なコミュニケーション
集団内のコミュニケーションが率直さや透明性を欠いています。メンバーは自分の真意をストレートに伝えられず、互いの反応を過度に気にしたり、相手が望んでいるであろうと推測したりして発言します。これにより、「他のメンバーもきっと同じ意見だろう」という誤った確信が生まれ、誰も本音を言えない悪循環に陥ります。

シグナルの誤った解釈
メンバー間の非言語的なシグナル（ため息、沈黙、表情など）や曖昧な言葉が、自分の不安や先入観に基づいて誤って解釈されます。これにより、集団全体が特定の感情（例えば、皆が乗り気だ、皆が不満そうだ）を持っていると誤って信じ込んでしまい、それがさらなる誤解を生みます。

意思決定後の後悔と正当化
いったん決定が下され、それが期待通りの結果をもたらさなかった場合に、メンバーや特に決定に関わったリーダーが「なぜ、あんなことをしてしまったのだろう」「どうすればこの決定を他の人に対して正当化できるのか」といった後悔や自己弁護の念に駆られます。

誤った決定からの学び
望ましくない結果や失敗を経験することで、自分たちがどのように誤った決定プロセスに陥ったのかを理解し、二度と同じ過ちを繰り返さないための教訓を得ようとします。しかし、この学びが次の決定に必ずしも生かされるとは限りません。

実社会での応用

この理論は、企業組織や政府機関、あるいは家族といった様々な集団における意思決定の失敗を分析する際にしばしば活用されます。メンバーの誰も本心では賛成していないにも関わらず、なぜか特定のプロジェクトが推進されたり、不人気な政策が実行されたりするといった事例の説明に有効です。ハーヴェイ自身も、ウォーターゲート事件における意思決定プロセスをアビリーンのパラドックスの一例として挙げています。

アビリーンのパラドックス