カンガルー・ノート

安部公房の長編小説『カンガルー・ノート』は、1991年11月に新潮社から世に出されました。その後、1995年には新潮文庫版も刊行され、より多くの読者に親しまれています。この作品は、安部が病床にあった時期に完成させた最後の長編であり、彼の文学的キャリアの終着点、すなわち「遺作」として位置づけられるのが一般的です。ただし、安部の死後に発見された未完の小説『飛ぶ男』を遺作と見なす考え方もあり、この点については複数の見解が存在します。新潮文庫版の紹介文にも、本作が安部にとっての「最後の長編」である旨が記されています。

物語は、脛にかいわれ大根が生えてくるという奇妙な病に冒された一人の男を主人公として展開します。彼は診察のために訪れた病院で、医師によって動くベッドに固定され、療養のために硫黄温泉を目指す旅へと送り出されます。この旅は単なる物理的な移動ではなく、主人公が自身の体の一部であるかいわれ大根を齧りながら進む、極めて不条議で幻想的な道程となります。自走するベッドを相棒として、彼は地下の坑道や、死者を思わせる賽の河原など、現実と夢、あるいは生と死の境界が曖昧な様々な空間を次々と巡っていきます。物語はあたかも連鎖する悪夢のように、主人公を取り巻く世界を変容させていきます。

しかし、既に主人公にとって郷愁さえ感じさせる存在となっていた自走ベッドの破壊と、かつて出会った魅力的な少女との予期せぬ再会を契機に、この夢幻的な物語の連鎖は突然の終焉を迎えます。そして、物語は読者がまるで夢から強制的に覚まされるかのように、主人公の死を冷徹に示唆する、新聞記事の抜粋という無機的な形で締めくくられます。

本作には全体を通じて「死」のイメージが色濃く漂っており、執筆当時の安部公房が実際に病を患っていた時期と重なることから、安部自身の内面や死生観を投影した作品として論じられることが非常に多いです。それにもかかわらず、物語の語り口は重々しさや暗鬱さを感じさせず、むしろどこか飄々として軽妙なタッチで描かれているのが特徴です。この独特の語り口が、作品に深みと不条理なユーモアを与えています。死という重いテーマを扱いながらも、安部文学らしい乾いたユーモアとメタフィクショナルな構造が散りばめられた『カンガルー・ノート』は、安部公房という稀代の作家が最期に到達した文学的な境地を示す一編と言えるでしょう。その書誌情報は、1991年11月刊行の新潮社版（ISBN 4-10-300809-1）および1995年2月刊行の新潮文庫版（ISBN 4-10-112124-9）に詳しいです。

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