テュルプ博士の解剖学講義

レンブラントと17世紀オランダの解剖学：『テュルプ博士の解剖学講義』の謎

レンブラント・ファン・レインの代表作の一つに数えられる『テュルプ博士の解剖学講義』（1632年）は、オランダ・デン・ハーグのマウリッツハイス美術館に所蔵されている油彩作品です。この絵画は、単なる解剖学の記録ではなく、17世紀オランダ社会の様相や、芸術と科学の関わりを深く反映した、多層的な意味を持つ作品として知られています。

公開解剖：社交イベントとしての医学講義

絵画の中央には、ニコラス・テュルプ博士が、絞首刑に処せられた犯罪者アーリス・キントの腕の筋肉組織を、医学の専門家らに説明している場面が描かれています。17世紀のオランダでは、アムステルダム外科医師会が、年に一度、公開解剖を行うことを認められていました。この公開解剖は、単なる医学教育の場というだけでなく、社会的なイベントとしての側面も持ち合わせていました。解剖劇場と呼ばれる専用の講義室が設けられ、学生、医師、一般市民など、多くの人々が有料で観覧に訪れました。観衆は、厳粛な社交イベントにふさわしい服装を身につけていたと伝えられています。絵画に描かれた観衆の一部は、後に描き加えられた可能性があると指摘されています。

レンブラントの技法と医学的正確性

レンブラントは、26歳の若さでこの作品を描きました。注目すべきは、筋肉や腱の描写の正確性です。医学の専門家からもその精密さが高く評価されています。レンブラントが解剖学的な知識をどこで得たのかは定かではありませんが、ヴェサリウスの『ファブリカ』などの解剖学書を参考にした可能性が考えられています。しかし、2006年の研究で、レンブラントが描いた左前腕の筋肉の起始部の描写に、実際の解剖学的構造と矛盾する点が見つかりました。これは、レンブラントが右腕の解剖図を参考に、それを左腕に当てはめて描いた可能性を示唆しています。また、死体の顔に施された「umbra mortis」（死の影）と呼ばれる陰影表現は、レンブラントの得意とする技法の一つです。

レンブラントの署名：芸術家としての成長

絵画の左上には、「Rembrandt f 1632」とレンブラントが署名しています。これは、レンブラントが自分の名前を絵画に署名した最初の例であり、それまでのイニシャルのみのサインとは対照的です。これは、彼の芸術家としての評価が高まってきた証と見なされています。ちなみに、レンブラントには『デイマン博士の解剖学講義』という類似の作品もありますが、火災により大部分が消失してしまっています。

類似作品と関連作品

アメリカ合衆国の画家トマス・エイキンズも、『グロス・クリニック』（1875年）や『アグニュー・クリニック』（1889年）といった、同様の主題を描いた作品を残しています。これらの作品は、公開解剖ではなく、生きた患者を対象とした外科手術の様子を描いています。また、日本の小説『翼竜館の宝石商人』（高野史緒）や、NHKの音楽番組『びじゅチューン！』の作品『テュルプ博士の参観日』など、この絵画をモチーフとした作品も存在します。

まとめ

『テュルプ博士の解剖学講義』は、単なる解剖学的な記録を超えた、17世紀オランダ社会の断面と、レンブラントの優れた芸術性を示す重要な作品です。医学、芸術、歴史といった様々な視点から、その奥深い魅力を解き明かしていくことができます。この絵画を通じて、私たちは17世紀のオランダ社会や、科学と芸術の複雑な関係について、より深く理解することができるでしょう。

もう一度検索