トリスヒドロキシメチルアミノメタン

トリス

トリス（Tris）は、化学名をトリスヒドロキシメチルアミノメタン（tris(hydroxymethyl)aminomethane、THAM）といい、広範な科学分野で利用される緩衝剤の一種です。特に分子生物学や核酸を扱う生化学実験では、さまざまな種類の緩衝液に不可欠な成分として広く用いられています。医薬品としてはトロメタモール（Trometamol）という名称で知られ、注射薬の添加物やアシドーシス治療薬として使用されることもあります。

緩衝剤としての特性

トリスを緩衝剤として使用する際には、いくつかの重要な特性を理解しておく必要があります。そのpKa（酸解離定数）は温度に大きく依存するため、温度が1℃上昇するごとに緩衝液のpHは約0.028単位低下します。また、緩衝液を10倍に希釈すると、pHは0.03から0.05程度減少する傾向があります。このため、有効な緩衝作用を発揮するpH範囲（一般的にはpH 7～9）も、使用する際の温度や濃度によって変動することを考慮に入れなければなりません。

トリスは研究者にとって身近で比較的安価に入手できる緩衝剤ですが、緩衝剤としての性能には限界があるという評価もあります。一級アミン構造を持つため、特定のタンパク質と反応し、生化学反応を阻害する可能性が指摘されています。さらに、哺乳類細胞に対して毒性を示す場合があることも知られています。こうした潜在的な問題を回避するための代替物質として、HEPESなどの緩衝剤が頻繁に利用されることがあります。

主なトリス含有緩衝液

トリス塩酸緩衝液

トリス塩酸緩衝液は、トリスを用いた最も基本的な緩衝液です。一般的には、トリスの水溶液（pHは約10.5）に塩酸を滴下し、目的とするpHに調整して調製します。このpH調整プロセスでは、塩酸の中和熱や希釈熱によって溶液の温度が上昇することがあります。そのため、正確なpHを測定するには、温度補正を行うか、使用する温度になるまで放置してから測定する必要があります。別の方法として、トリスとトリス塩酸塩を適切な割合で混合して調製することも可能です。

この緩衝液は単独で使用されるほか、高濃度（例えば1 M）でpHを調整したストック溶液として調製し、これを希釈して後述するTE緩衝液などの調製に用いることが一般的です。希釈する際にpHがわずかに変動する（約0.1単位）ことがありますが、日常的な実験用途では通常大きな問題とはなりません。しかし、高い精度が求められる場合には注意が必要です。

TE緩衝液

TE緩衝液は、トリスとエチレンジアミン四酢酸（EDTA）から構成される緩衝液で、DNAやRNAを用いた実験で非常に広く使われる基本的な溶液です。トリスの作用により、緩衝液は弱アルカリ性のpHに保たれます。これにより、核酸のリン酸基が脱プロトン化されて負電荷を帯び、水溶性を維持して沈殿を防ぐのに役立ちます。添加されるEDTAは、マグネシウムなどの2価陽イオンをキレートする能力を持ちます。これらの金属イオンはDNAやRNAを分解する酵素（ヌクレアーゼ）の活性に必要な場合があるため、EDTAによってこれらを捕捉することで、核酸の分解を防ぐ目的で加えられています。

一般的な組成は以下の通りです。

Tris/Tris-HCl: 10 mM
EDTA: 1 mM

TE緩衝液のpHについては、RNA用にはpH 7.5、DNA用にはpH 8.0に調整するという慣習があります。これは、1980年代に行われたヌクレアーゼの研究に基づき、それぞれの核酸を分解するヌクレアーゼの活性が最も低下するように設定された経緯があります。ただし、多くの用途においては、弱アルカリ性であればこれらのpH値に厳密にこだわる必要はないと考えられています。

TAE緩衝液

TAE緩衝液は、トリス、酢酸（Acetate）、そしてEDTAから構成される緩衝液です。主にアガロースゲル電気泳動を用いて核酸（特にDNA）を分離する際に使用されます。大量に利用する場合が多いため、通常は50倍または10倍濃度のストック溶液として調製しておき、使用時に必要な濃度に希釈して用います。

一般的な組成は以下のようになります。

Tris/Tris-acetate: 40 mM
EDTA: 1 mM

ストック溶液のpHは通常8.3程度に調整されますが、目的に応じて異なるpHが用いられることもあります。電気泳動中の発熱を抑えるために、規定濃度よりも低い濃度（例：0.5倍濃度）で使用されることもあります。TAE緩衝液は比較的緩衝能力が弱いため、長時間の電気泳動を行うと陽極側のpHが酸性に傾いてしまうことがあります。DNAの泳動速度はTBE緩衝液を用いた場合と比較して約1割速くなる傾向があります。長いDNA断片の分離に適しており、サザンブロッティングのような手法で頻繁に用いられます。

TBE緩衝液

TBE緩衝液は、トリス、ホウ酸（Borate）、そしてEDTAから構成される緩衝液です。こちらもTAE緩衝液と同様に、アガロースゲル電気泳動による核酸の分離に広く使用されます。多くの場合、10倍濃度のストック溶液を調製し、使用時に希釈して用いるのが一般的です。

一般的な組成は以下の通りです。

Tris/Tris-borate: 89 mM
EDTA: 2 mM

TBE緩衝液のpHも8.3程度に調整されることが多いですが、組成と同様にバリエーションが存在します。TAEとTBEは類似した用途で使用されますが、TBEはTAEよりも緩衝能力が高く、よりシャープな分離が得られるという特徴があります。一方、TAEはTBEに比べて安価であるため、日常的な実験で好んで用いられる傾向があります。

トリス緩衝生理食塩水

トリス緩衝生理食塩水（Tris-Buffered Saline、略称TBS）は、トリスと塩化ナトリウム（NaCl）から構成される緩衝液です。リン酸緩衝生理食塩水（PBS）が特定の実験系で不適切な場合（例えば、リン酸が関わる反応や細胞への影響を避けたい場合）に代替として用いられることがあり、特に免疫学的な実験（ウェスタンブロッティングの洗浄液など）で多用されています。PBSと同様に、その組成には極めて多様なバリエーションが存在するため、以下に示すのはあくまで最も基本的な例です。

Tris/Tris-HCl: 10 mM
NaCl: 150 mM

その他の利用

緩衝剤としての用途に加え、トリスは工業的な場面でも利用されています。例えば、界面活性剤や加硫促進剤などの有機化合物を合成する際の化学反応における中間原料として用いられることがあります。また、酸塩基滴定における標準物質として使用されることもあります。

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