ニコライ・トルベツコイ

ニコライ・セルゲーエヴィチ・トルベツコイ：言語学とイデオロギーの狭間で生きた貴族

ニコライ・セルゲーエヴィチ・トルベツコイ（1890年-1938年）は、20世紀を代表する言語学者の一人です。ロシアの貴族階級に生まれ、モスクワ大学で学びました。彼は、単なる言語学者という枠を超え、激動の時代を生き抜き、独自の思想を貫いた人物として知られています。

華麗なる出自と革命の嵐

トルベツコイは、中世リトアニアを支配したゲディミナス朝の流れを汲む、名門トルベツコイ公爵家の出身です。父セルゲイ・ニコラーエヴィチ、叔父エヴゲーニイ・ニコラーエヴィチも著名な哲学者であったことから、彼は学問の世界に囲まれた環境で育ちました。1913年にモスクワ大学を卒業後、母校で教鞭を執りますが、まもなくロシア革命の嵐が彼の人生を大きく変えます。

革命後、トルベツコイは祖国を離れ、ロストフ・ナ・ドヌ大学、ソフィア大学、ウィーン大学と転々とし、各地で教鞭を執りながら研究を続けました。この時代、彼はプラハ学派の中心人物として活躍します。プラハ学派は、構造主義言語学を代表する重要な学派であり、トルベツコイはその中心的役割を果たしました。

ユーラシア主義との距離

トルベツコイは、ユーラシア主義の代表的人物としても知られています。ユーラシア主義は、ユーラシア大陸を基盤とした独自の文明圏を構想する思想ですが、トルベツコイは、1929年以降、ソ連を礼賛するようになった他のユーラシア主義者たちを批判し、グループから離れていきました。ナチズムにも批判的であった彼は、ナチスの迫害を逃れるためウィーンに身を寄せますが、1938年、心臓発作のため、ウィーンで亡くなりました。

音韻論における金字塔

トルベツコイの最大の業績は、音韻論における貢献です。彼の死後に刊行された『音韻論の原理』(Grundzüge der Phonologie)は、言語学史に大きな足跡を残しました。「音素」という概念を明確に定義し、音声学と形態音韻論を明確に区別することで、言語学の基礎を築いたのです。この著作は、今日でも言語学研究において重要な参考文献として活用されています。意味を区別する最小の音の単位である「音素」という概念は、現代言語学の基礎を成すものです。この概念の明確化は、言語学における大きな転換点となりました。

言語学者を超えて

トルベツコイは、単なる言語学者ではありませんでした。彼は貴族としての出自、革命という激動の時代、そして複雑なイデオロギーの狭間で、独自の知性と信念を貫きました。彼の生涯と業績は、言語学のみならず、歴史、思想、そして人間の生き方について深く考えさせるものです。彼の著作は、現在も多くの研究者によって読み継がれ、その思想は現代にも影響を与え続けています。彼の生きた時代背景と、その中で彼が成し遂げた功績を理解することは、現代社会を理解する上で重要な視点を与えてくれるでしょう。

参考文献

* N.S.トゥルベツコイ/長島善郎訳『音韻論の原理』岩波書店, 1980

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