ハイパーボリア

「ハイパーボリア」は、主に二つの異なる文脈で語られる概念です。一つは古代ギリシアの伝説における理想的な民族とその居住地、もう一つは近現代の幻想文学、特にクトゥルフ神話体系において創造された太古の地球の地名です。

ギリシア神話におけるヒュペルボレイオス

古代ギリシアの地理観において、ヒュペルボレイオス（古希: Ὑπερβόρεοι, Hyperboreoi）は、「北風（ボレアス）の彼方に住む人々」を意味し、世界の北の果てに位置する伝説上の民族を指します。彼らが住む土地は「ハイパーボリア」と呼ばれ、そこは常に太陽が輝き、豊かな自然に恵まれた、地上における楽園として描かれました。

この民族は、病気、老い、悲しみとは無縁であり、非常に長命で幸福な生活を送っていると信じられていました。彼らは特に光明の神アポロンを深く崇拝し、彼らの土地はアポロンが夏の間を過ごす神聖な場所であるとも考えられていました。神話や歴史家の記述によれば、ヒュペルボレイオイは敬虔で正義感が強く、争いを知らない平和な人々でした。

古代の詩人ピンダロスは彼らの幸福な生活を讃え、歴史家ヘロドトスもスキタイ人の伝聞として彼らの存在に言及しています。また、英雄ペルセウスがメドゥーサ討伐の際に彼らの地に立ち寄ったという伝説や、ヘラクレスがヒュペルボレイオイの地で金の林檎を手に入れたというエピソードなど、様々な神話に彼らは登場しますが、その正確な地理的な位置や実在性については常に謎に包まれていました。彼らの存在は、古代ギリシア人にとって世界の未知なる辺境に対する想像力や、理想郷への憧れを投影したものであったと言えるでしょう。

クトゥルフ神話におけるハイパーボリア

一方、20世紀の幻想文学作家クラーク・アシュトン・スミス（Clark Ashton Smith, 1893-1961）が創造した独自のフィクション世界にも「ハイパーボリア」という地名が登場します。これはハワード・フィリップス・ラヴクラフトの創造したクトゥルフ神話体系の一部としても位置づけられています。

スミスによって描かれるハイパーボリアは、古代ギリシアの理想郷とは全く異なり、現代から数万年、あるいは数十万年さかのぼる太古の地球、氷河期が到来しつつある時代の北極圏付近に存在したとされる架空の大陸あるいは文明圏です。この時代のハイパーボリアは、かつての栄華を失い、奇妙な生物や邪悪な神々が跋扈する、退廃的で不気味な世界として描かれます。

スミスの多くの短編小説、例えば「ヴーアミ族の冒険」や「氷の魔物」などは、このハイパーボリアを舞台としています。そこでは、原始的なヴーアミ族、奇怪な超古代生物、そして宇宙的な恐怖を体現する邪神、特に多次元的な存在ツァトゥグァや蜘蛛の神アトラック＝ナチャなどが登場します。このハイパーボリアは、単なる失われた文明の物語ではなく、宇宙的恐怖や人間の脆さを描くための舞台装置として機能しており、スミス独自の耽美的でグロテスクな世界観が色濃く反映されています。

クラーク・アシュトン・スミスは、古代ギリシア神話の「ヒュペルボレイオス」という概念から着想を得た可能性はありますが、彼の創造したハイパーボリアは、原典の持つ理想郷のイメージとはかけ離れた、独自の暗く幻想的な世界として構築されています。このように、「ハイパーボリア」という言葉は、異なる時代、異なる文化の中で、それぞれ独自の伝説や物語を生み出してきた概念と言えるでしょう。

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