ピアノ協奏曲第9番 (モーツァルト)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1777年にザルツブルクで完成させたピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K. 271は、その充実した内容と構成の巧みさから、同時期に書かれた他の協奏曲（第6番、第7番『ロドロン』、第8番『リュッツォウ』など）の中でも特に高く評価されています。

かつてはこの作品が「ジュノーム嬢」と呼ばれる女性ピアニストに献呈されたと考えられていたことから、『ジュノム』（Jeunehomme）という愛称で広く知られてきました。

愛称の由来と「ジュノーム嬢」

長年にわたり、この「ジュノーム嬢」が具体的に誰であるかは謎に包まれていました。伝えられるところによれば、1777年1月にザルツブルクを訪れた彼女のために作曲・献呈されたとされており、その音楽的な大胆さや、当時の常識を超えた規模感は、彼女の高い演奏能力や芸術的な要求に応えようとした結果ではないかと推測されてきました。しかし、この愛称の根拠自体に疑念が持たれるようになります。

愛称に関する近年の研究

2004年、音楽学者のミヒャエル・ローレンツ氏の研究によって、この長年の謎が解明されました。ローレンツ氏の研究によれば、献呈相手は著名なフランス人舞踏家ジャン＝ジョルジュ・ノヴェールの娘であり、ピアニストであったヴィクトワール・ジュナミ（Victoire Jenamy）であることが突き止められました。「ジュノム」という愛称は、1912年に書かれたフランス語のモーツァルト伝記において、この人物の名前が不明であったために、単に「若者」を意味するフランス語 "jeune homme" と呼称したことが始まりであり、固有名詞ではなかったことが明らかになりました。この研究結果を受けて、近年では日本国内においても、CDのタイトルや音楽関連の出版物などで、『ジュノム』ではなく、本来の名前である『ジュナミ』と表記されるケースが増加しています。

音楽的な特徴

この協奏曲は、独奏ピアノ、オーボエ2、ホルン2、弦五部という編成で書かれており、全3楽章構成で、演奏時間は約32分です。

第1楽章 アレグロ は変ホ長調、4分の4拍子によるソナタ形式です。冒頭から、オーケストラの呼びかけに独奏ピアノがいきなり応えるという、当時としては極めて異例かつ革新的な開始方法を採用しています。この独創的な手法は、後のベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番や第5番『皇帝』といった傑作における、ピアノの先導的な役割の萌芽とも見なされています。

第2楽章 アンダンティーノ はハ短調、4分の3拍子、ソナタ形式です。モーツァルトが作曲した全27曲のピアノ協奏曲の中で、第2楽章が短調で書かれているのは数少なく、この作品を含めてわずか5曲（他は第4番、第18番、第22番、第23番。第4番は他作品の編曲）のみであり、特筆すべき点です。短調による叙情的で深い情感を持つ楽章は、作品全体のコントラストを高めています。

第3楽章 ロンドー：プレスト は変ホ長調、2分の2拍子（アラ・ブレーヴェ）によるロンド形式です。大枠では「A-B-A-C-A-B-A」という形式をとりますが、特筆すべきは途中にカンタービレで歌われる優雅なメヌエットが挿入される点です。これにより、形式的な多様性と驚きがもたらされています。

カデンツァについて

この作品には、モーツァルト自身が書いたカデンツァが数多く残されています。第1楽章と第2楽章にはそれぞれ2種類のカデンツァがあり、第3楽章の独奏導入部（アインガング）に至っては2箇所にそれぞれ3種類ものカデンツァが存在します。これほど多くのカデンツァが伝わっているのは、モーツァルト自身がこの協奏曲を頻繁に演奏会で取り上げていたためと考えられています。少なくとも、1777年10月4日のミュンヘン、1781年4月3日および1783年春のウィーンでの演奏記録が残っています。

まとめ

ピアノ協奏曲第9番 K. 271は、モーツァルトが若き日に到達した成熟度を示す傑作であり、特に第1楽章の斬新な開始や、愛称を巡る歴史的な経緯、そしてその音楽的な質の高さから、今日でも多くの聴衆に愛されています。近年の研究によって愛称の背景にある真実が明らかになったことも、この作品の興味深い一面と言えるでしょう。

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