マリー・ド・メディシスの生涯

『マリー・ド・メディシスの生涯』：ルーベンスが描く壮大な王妃の物語

『マリー・ド・メディシスの生涯』は、フランドルの巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスが手がけた24枚の連作絵画の総称です。フランス王アンリ4世の妃、マリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンブール宮殿の装飾として、1621年秋にルーベンスに制作を依頼しました。この連作は、マリーの生涯における重要な出来事を描き出し、彼女の苦難と栄華を称えています。全24枚のうち、21枚はマリーの生涯を主題とし、残る3枚はマリーと両親の肖像画です。現在、これらの絵画はパリのルーヴル美術館に所蔵され、「メディシスの間」または「ルーベンスの間」として知られる部屋に展示されています。

制作依頼の背景

マリー・ド・メディシスがこの壮大な連作をルーベンスに依頼した背景には、いくつかの説が存在します。ジョン・クーリッジは、ルーベンスがデザインしたタペストリー『コンスタンティヌス大帝の生涯』に対抗心を燃やしたのではないかと指摘しています。同時期、ルーベンスは後の連作に組み込まれる数点の絵画も制作しており、マリーの息子であるルイ13世の依頼で油彩の習作を描いていました。これらの要素が、1621年末にマリーがルーベンスに連作を依頼する動機になった可能性があります。

しかし、最も有力な説は、マリー自身が自身の生涯を不朽のものとするためだったというものです。当時のルーベンスは、ヨーロッパでも指折りの画家として名声を得ており、諸国の有力者とも親交がありました。マリーは、自身の人生を壮大な物語として描き出すことのできるルーベンスこそが、この大事業を成し遂げられる人物だと考えたのでしょう。

契約書は詳細には及ばず、何枚の絵画でマリーの生涯を描くか程度しか記されていませんでした。これは、未完に終わったアンリ4世の生涯を描く連作の契約書に比べて、非常に簡素なものでした。契約では、すべての人物像をルーベンス自身が描くことが定められ、弟子は背景や細部のみを手掛けることが許されました。

マリー・ド・メディシス

マリー・ド・メディシスは、1600年10月5日にフランス王アンリ4世の2番目の妃となりました。彼女の父はトスカーナ大公フランチェスコ1世です。アンリ4世がマリーと結婚したのは、彼女の叔父であるフェルディナンド1世が、当時のトスカーナ大公として大きな権力と財産を有していたことも関係しています。

1610年にアンリ4世が暗殺されると、マリーは幼いルイ13世の摂政となりました。しかし、1617年にルイ13世が親政を始めると、マリーはブロワ城に追放されます。その後、4年の歳月を経て1621年にパリに帰還を許され、建築やリュクサンブール宮殿の装飾に熱中するようになりました。この頃から、ルーベンスに多くの美術作品の制作を依頼するようになったのです。

マリーとルーベンスが初めて会ったのは、1600年にフィレンツェで行われたマリーとアンリ4世の代理結婚式の場でした。1621年には、リュクサンブール宮殿の装飾のために、マリーとアンリ4世を描いた2点の大きな肖像画をルーベンスに依頼しています。この2点が、その後の21点の連作へと繋がりました。これらの連作は1624年末に完成し、1625年5月1日に挙行された娘アンリエット・マリーの結婚式で飾られました。

マリーは1631年にフランスから永久追放され、ブリュッセルに亡命、ルーベンスがかつて住んでいた邸宅で1642年に死去しました。アンリ4世の生涯を描く連作は未完に終わり、習作や下絵が数点現存するのみです。

ルーベンスにとっての大規模な依頼

『マリー・ド・メディシスの生涯』は、ルーベンスにとって最初の大規模な絵画制作依頼でした。マリーの生涯を21枚の絵画で描き出すことは、ルーベンスにとっても困難な挑戦でした。なぜなら、当時の女性を称賛する美術作品は少なく、マリーの生涯も派手な勝利や戦いの経験に乏しかったからです。ルーベンスは「異性が持つ美徳」に深い敬意を抱いていましたが、マリーの人生は政治的な不祥事も多く、それらをそのまま描けば非難を浴びる可能性がありました。

そこでルーベンスは、古典文学の知識や絵画表現の技法を駆使し、マリーの日常的な風景を美化して描きました。キリスト教的世界観に基づいた寓意は、教養ある人々にとって馴染み深く、作品の芸術性を高めるために多用されました。たとえば、マリーの母ジョヴァンナは、ギリシア神話の神々に囲まれた神格化された女性として描かれています。これらの神々は、マリーを引き立てるために意図的に不明瞭に表現されています。

ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』は、ロココ期の画家たちにも影響を与えました。アントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェは、この連作の模写を残しています。

ピーテル・パウル・ルーベンス

ピーテル・パウル・ルーベンス（1577年 - 1640年）は、北方ヨーロッパの芸術家たちに多大な影響を与えた巨匠です。彼の作風や技法は、当時の美術界で最も重要な位置を占めていました。ルーベンスは、絵画、版画、彫刻など3,000点以上の美術品を制作し、そのジャンルは歴史画、宗教画、寓意画、祭壇画、肖像画、風景画と多岐にわたります。彼は、鮮やかな色彩と豊かな衣装で飾られた人物像で知られ、キリスト教や古典古代の知識に裏打ちされた作品を多く残しました。

ルーベンスのキャリアは、ギリシア・ラテンの古典的教養と、イタリアでの修業経験に大きく影響されています。彼は、古代ギリシア・ローマ彫刻や、ミケランジェロ、ラファエロ、カラヴァッジョ、ティツィアーノといったイタリアの巨匠たちから学びました。ルーベンスは、これらの先人たちの作品を蒐集し、自らの芸術に取り込みました。また、同時代のフランドル人芸術家アドリアーン・ブラウエルの作品も数多く集めています。

『マリー・ド・メディシスの生涯』の制作依頼を受けた頃、ルーベンスは、北方ヨーロッパで最も優れた画家として知られていました。この連作は、彼が宗教画だけでなく、世俗画でも卓越した作品を生み出すことができることを示す絶好の機会となりました。

『マリー・ド・メディシスの生涯』の構成と寓意

『マリー・ド・メディシスの生涯』は、リュクサンブール宮殿の待合室の壁に、マリーの生涯を時系列順に展示されていました。現在はルーヴル美術館で、同じく時系列順に展示されています。絵画は、マリーの幼年時代、フランス王妃時代、アンリ4世と死別後の摂政時代に大きく分けられます。縦寸は同じですが、横寸は部屋の形に合わせて様々です。24枚のうち、16枚は高さ4メートル、横3メートルの壁に、3枚の大きな絵画は高さ4メートル、横7メートルの壁に飾られていました。

待合室の入り口から見ると、『サン＝ドニの戴冠』と『アンリ4世の神格化と摂政就任宣言』が最も目立つ位置にあり、入り口の壁にはマリーの幼少時代や結婚を描いた絵画が飾られていました。マリーとアンリ4世の結婚を題材にした絵画が4点もあるのは、マリーが27歳という当時としては高齢で結婚したことが関係していると考えられています。連作前半は、マリーの戴冠で終わり、後半はアンリ4世の暗殺とマリーの摂政宣言、そして息子ルイ13世との衝突と和解が描かれています。

ルーベンスは、歴史的出来事をそのまま描くのではなく、古代神話の世界に仮託し、寓意や象徴を多用することで、現実世界の出来事を曖昧に表現しました。このような表現手法は、歴史的事実を詩的な世界に変容させる効果をもたらし、現代の歴史家やジャーナリストからも評価されています。

ルーベンスが用いた物語的手法は、古代ローマ・ギリシア時代の「称賛文」にルーツがあります。これらの称賛文は、為政者の権威を高め、その血統を称える目的で使用されました。ルーベンスの連作の構成は、これらの称賛文を絵画として再現したものなのです。

連作を構成する主な作品

『マリー・ド・メディシスの生涯』は、以下の作品で構成されています。

『マリー・ド・メディシスの運命』: ローマ神話の運命の女神パルカが、マリーの幸運を保証しています。
『公女の誕生』: マリーの誕生を祝福する寓意に満ちた絵画です。
『公女の教育』: 神々から教育を受けるマリーの姿が描かれています。
『アンリ4世へのマリーの肖像画の贈呈』: マリーの肖像画に一目惚れするアンリ4世が描かれています。
『マリー・ド・メディシスとアンリ4世の代理結婚式』: フィレンツェでの代理結婚式を描いた作品です。
『マルセイユ上陸』: フランスに上陸するマリーの様子を描いた壮麗な絵画です。
『マリーとアンリ4世のリヨンでの対面』: マリーとアンリ4世の最初の出会いを神話的に表現しています。
『フォンティーヌブローでの王子の誕生』: ルイ13世の誕生を描いた作品です。
『摂政委譲』: アンリ4世がマリーに摂政を委ねる場面を描いています。
『サン＝ドニの戴冠』: 戴冠式を描いた作品です。
『アンリ4世の神格化とマリーの摂政宣言』: アンリ4世の死とマリーの摂政就任を描いた作品です。
『神々の評議会』: マリーの摂政時代の平和政策を寓意的に表現しています。
『ユーリヒでの勝利』: ユーリヒでのフランス軍の勝利を主題とした作品です。
『スペイン国境での王女の交換』: フランスとスペインの二重結婚を描いた作品です。
『摂政マリーの至福』: マリーの摂政時代を正義の女神として描いた作品です。
『ルイ13世の国王就任』: マリーからルイ13世への政権移譲を描いています。
『ブロワ城からの脱出』: 幽閉されていたブロワ城から脱出するマリーの姿を描いています。
『アングレームの条約』: マリーとルイ13世の和解への道のりを描いた作品です。
『アンジェの平和』: アンジェでの休戦協定を描いた作品です。
『完全なる和解』: マリーとルイ13世の和解を寓意的に描いた作品です。
* 『真理の勝利』: マリーとルイ13世の和解を天国を舞台に描いた作品です。

その他、マリー、父フランチェスコ1世、母ジョヴァンナの肖像画も含まれています。

『アンリ4世の生涯』

当初、アンリ4世の生涯を描いた連作も制作される予定でしたが、こちらは未完に終わりました。アンリ4世の生涯は、戦争、遠征、都市包囲戦などの軍事的成功を描く予定でしたが、政治的状況の変化により制作が中止となりました。

ルーベンスは、『アンリ4世の生涯』のために、数点の油彩下絵と未完の絵画を残しています。これらの下絵は、アンリ4世の軍事的功績を題材としており、『マリー・ド・メディシスの生涯』とは対照的な暴力的で激しい構成となっています。

まとめ

『マリー・ド・メディシスの生涯』は、ルーベンスの卓越した技術と、マリーの壮大な人生が融合した傑作です。ルーベンスは、寓意や象徴を駆使し、歴史的出来事を詩的な世界へと昇華させました。この連作は、美術史における重要な作品群であり、現在も多くの人々を魅了し続けています。

もう一度検索