マルペーッサ

ギリシア神話において、数奇な運命をたどった女性として知られるのがマルペーッサです。彼女は、エトリア地方を流れるエウエーノス川の神（またはその地域の王）であるエウエーノスの娘として生まれました。後にメッセーネー地方の有力な英雄であるイーダースと結婚し、クレオパトラーという一人の娘をもうけています。このクレオパトラーは、後にギリシア世界で名高い英雄の一人、メレアグロスと夫婦となります。

父エウエーノスと求婚者たち

マルペーッサの父エウエーノスは、娘に婿を迎えるにあたって独特かつ過酷な条件を課していました。彼は、マルペーッサに求婚する者に対して、自らの戦車に乗って競走を挑みました。そして、この競争でエウエーノスに敗れた求婚者は、容赦なく殺されてしまっていたのです。多くの若者がマルペーッサの美しさに惹かれて挑戦しましたが、その多くがエウエーノスによって命を奪われていました。しかし、メッセーネーの英雄イーダースは、マルペーッサに強く心を奪われ、この危険な求婚に挑むことを決意しました。

イーダースによる連れ去りと父の最期

父の厳しい条件を正面から突破することが難しいと考えたイーダースは、より大胆な手段を選びます。彼は海の神ポセイドーンからの特別な恩恵を受け、空を飛ぶことができるという素晴らしい有翼の戦車を借り受けたのです。イーダースはこの神聖な戦車を用いて、エウエーノスの目を盗んでマルペーッサを連れ去りました。娘を奪われたことを知ったエウエーノスは激しく怒り、自身の戦車でイーダースの後を追いました。しかし、どんなに速く走っても、イーダースの駆る有翼戦車には追いつくことはできませんでした。追跡の失敗を悟り、絶望の淵に沈んだエウエーノスは、所有していた馬を殺し、自ら近くを流れる川に身を投げて命を絶ちました。この川は、後に彼の名にちなんでエウエーノス川と呼ばれるようになったと伝えられています。

アポローンとの遭遇と争い

イーダースとマルペーッサは、ポセイドーンから借りた戦車でメッセーネー地方を目指していましたが、安息は長く続きませんでした。旅の途中で、光と美の神アポローンが彼らの前に現れたのです。アポローンはマルペーッサの類稀な美しさに心を奪われ、彼女をイーダースから奪い取ろうとしました。愛する女性を神に奪われそうになったイーダースは、たとえ相手が神であっても一歩も引かず、アポローンに対して敢然と戦いを挑みました。神と人間の間で、一人の女性を巡る激しい争いが繰り広げられました。この争いの最中、マルペーッサは深い悲しみと不安に苛まれ、まるでカワセミ（古代ギリシア語で「アルキュオン」）が物悲しい声で鳴くように、か細い声で泣き続けたといいます。

ゼウスの仲裁とマルペーッサの選択

神と人間の間で起こったこの異例の争いは、やがて最高神ゼウスの耳に届きました。ゼウスは事態を収拾するため、自ら仲裁に入り、両者に裁定を下すこととしました。しかし、その裁定は一方的なものではなく、マルペーッサ自身に最終的な決定を委ねるというものでした。すなわち、彼女自身に、神であるアポローンと人間であるイーダースのどちらを夫として選ぶかを決めさせたのです。マルペーッサは、どちらを選ぶべきか深く悩みました。しかし、やがて彼女はある結論に至ります。不死の存在であるアポローンと結ばれた場合、自分自身がいずれ年老いて美しさを失った際に、永遠に若々しい神に見捨てられてしまうのではないかという、人間ならではの儚い寿命に対する懸念を抱いたのです。それゆえ、たとえ人間であっても、共に老いることができ、最後の時まで寄り添ってくれるであろうイーダースこそが真の伴侶であると判断し、人間であるイーダースを夫として選んだのでした。

夫婦生活と悲劇的な結末

自らの意思でイーダースを選んだマルペーッサは、彼と正式に夫婦となりました。二人の間には、一人の娘が生まれます。娘はクレオパトラーと名付けられましたが、イーダースとアポローンが争った際にマルペーッサが悲しみに暮れて泣いた出来事にちなみ、「アルキュオネー」という愛称で呼ばれました。このクレオパトラー（アルキュオネー）は、後にカリュドーンの猪狩りで活躍する英雄メレアグロスの妻となります。マルペーッサとイーダースは夫婦として平穏な日々を送っていたと伝えられています。しかし、彼らの物語は悲劇的な結末を迎えます。夫である英雄イーダースが何らかの理由で命を落とした際、マルペーッサは深い悲しみから立ち直ることができず、生きる希望を失ってしまいました。そして、愛する夫の後を追うように、自らの手で命を絶ったとされています。マルペーッサの物語は、神の求愛を退けて人間としての愛を選んだ女性の決断と、その後の悲劇的な運命を示すものとして、ギリシア神話の中で語り継がれています。

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