ミセス・ワグナーズ・パイ

ミセス・ワグナーズ・パイ

ミセス・ワグナーズ・パイ（Mrs. Wagner's Pies）は、かつてアメリカ合衆国東部で広く親しまれた、一人用サイズの持ち帰り用パイです。特に1960年代頃まで、ニューヨーク州やニュージャージー州といった大都市圏を中心に、労働者階級の人々にとって手軽で身近な存在でした。その特徴は、一つずつ丁寧にパラフィン紙で包装されていたこと、そして後述する独特な販売方法にありました。

沿革と事業の変遷

物語は1890年代のニューヨークに始まります。ワシントン・マーケットで、ミセス・ワグナーという名の女性が手作りパイを販売し始め、その美味しさが評判を呼びました。彼女の事業はまたたく間に拡大しましたが、「ミセス・ワグナーズ」という商標の権利は、創業者の手を離れ、複数の企業間で複雑に行き交うことになります。これらの企業は、主にニューヨーク州からニュージャージー州にかけて拠点を置いていました。

一方で、ミセス・ワグナー自身は事業売却後、ニュージャージー州の海辺のリゾート地であるオーシャン・グローヴへ移り住み、そこで個人的なパイの小売店を継続したと伝えられています。このため、ミセス・ワグナーズ・パイの創業地をオーシャン・グローヴとする見方もあります。

事業規模は拡大を続け、1940年9月の『Newark News』紙に掲載された記事では、当時の社長F.W. Birkenihauer氏が同社を「全国最大のパイ製造業者」と位置づけています。ニューアークの本社工場のほか、国内に5つの製造拠点を持ち、最も西の拠点としてはシカゴにも進出していたことが記録されています。

提供されたパイの種類と特徴

ミセス・ワグナーズ・パイは、年間を通じて様々な種類のパイを提供していました。最も人気が高かったのは定番のアップルパイですが、感謝祭の季節にはパンプキンパイ、クリスマスの時期にはミンスパイといった、アメリカの伝統的な祝祭に合わせた季節限定のパイも製造されました。他にも、滑らかなクリームパイ、夏にはチェリーやベリー類を使った爽やかなパイ、冬には濃厚なココナッツ・カスタード・パイなど、バラエティ豊かな品揃えで消費者のニーズに応えていました。

このパイの販売方法の大きな特徴の一つは、多くの場合、直径約23センチメートルの金属製の皿に載った状態で販売されていたことです。そして、この皿を店舗に返却すると、一定額が返金されるという仕組みが採用されていました。これは、単に皿のコストを回収するだけでなく、容器のリサイクルを促す先進的な試みでもあったと言えるでしょう。今日でも、「ミセス・ワグナーズ・パイ」のロゴや名前が入った様々な仕様の金属皿が、骨董品やコレクターズアイテムとして市場で取引されており、かつての人気を物語っています。

終焉と文化への影響

一世を風靡したミセス・ワグナーズ・パイですが、その歴史は永遠に続いたわけではありません。当時の販売元であったミセス・ワグナーズ・ホーム・メイド・パイズ社により、1969年7月11日をもって、その製造・販売は終了しました。

しかし、このパイはアメリカの文化の中にその足跡を残しています。特に有名なのは、1968年に発表されたサイモン&ガーファンクルの不朽の名曲「アメリカ（America）」の歌詞の中で言及されている点です。この曲は、アメリカ各地を旅する若者の姿を描いており、その旅の途中でミセス・ワグナーズ・パイが登場することで、当時のアメリカの風景や人々の日常を象徴するアイテムの一つとして、今も多くの人々の記憶に留められています。

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