リン酸緩衝生理食塩水

リン酸緩衝生理食塩水（PBS）

リン酸緩衝生理食塩水（英語: Phosphate-buffered saline、略称: PBS）は、細胞を対象とした様々な生命科学分野の実験において、極めて頻繁に使用される緩衝溶液です。この溶液は、生体内に自然に存在するイオン、特にナトリウムイオン、カリウムイオン、リン酸イオン、塩化物イオンなどを主成分として構成されています。

主な特性と用途

PBSの最も重要な特性の一つは、生体に対して毒性が非常に低いことです。これは、その構成成分が生体内に普遍的に見出されるイオンであることに由来します。そのため、生きた細胞を扱う実験において、細胞へのダメージを最小限に抑えながら様々な操作を行うことが可能です。

また、PBSは細胞の内部環境とほぼ同じ浸透圧（等張性）に調整されています。細胞が生理的な活動を行う上で、周囲の環境の浸透圧は非常に重要です。もし細胞が低浸透圧環境に置かれると水分を吸収して膨張・破裂する可能性があり、逆に高浸透圧環境では細胞から水分が流出して萎縮してしまいます。PBSは等張であるため、細胞をこの溶液に浸しても細胞膜が壊れたり、細胞の形が大きく変化したりするような浸透圧によるストレスを与えません。この特性から、細胞の洗浄操作に広く用いられます。例えば、培養細胞から培地を取り替える際や、細胞表面に付着した不要な物質（例えば、接着していない細胞、死細胞、残留物など）を取り除く際に、PBSで細胞を優しく洗い流す工程が一般的に行われます。

さらに、実験操作中に容器の底面に強く付着した細胞や、互いにくっつき合って凝集した細胞を、穏やかに分散させたり、容器から剥がしたりする目的でも使用されます。特に、酵素処理など細胞に強い影響を与える操作の前に、細胞を物理的に遊離させる手段として有効です。

組成の多様性

PBSの正確な化学組成には、実験の目的や対象とする細胞の種類、さらには研究室やプロトコルによって複数のバリエーションが存在します。標準的な組成としては、リン酸二水素ナトリウム（NaH₂PO₄）、リン酸水素二ナトリウム（Na₂HPO₄）、塩化ナトリウム（NaCl）、塩化カリウム（KCl）などを含みます。

リン酸塩（リン酸二水素ナトリウムとリン酸水素二ナトリウム）は、PBSのpHを細胞の生存に適した弱アルカリ性（通常pH 7.2～7.6、多くはpH 7.4付近）に維持するための緩衝成分として機能します。生理食塩水としての主要成分は塩化ナトリウムであり、これが溶液の大部分の浸透圧を決定します。塩化カリウムは、生体内のイオンバランスをより正確に模倣するために添加されることがありますが、特定のプロトコルではカリウム塩を含まない組成が用いられることもあります。

さらに、特定の実験、例えば細胞接着に関連する研究などでは、カルシウムイオン（Ca²⁺）やマグネシウムイオン（Mg²⁺）を添加したPBSが使用されることがあります。これらの二価の陽イオンは、細胞表面のタンパク質や分子の機能、特に細胞間や細胞-基質間の接着に関与するため、その存在によって細胞の挙動が影響を受ける場合があります。このような実験では、標準のPBS（Ca²⁺/Mg²⁺不含）と、添加されたPBSを使い分けることが一般的です。

緩衝液としての役割

PBSはリン酸緩衝系を利用して溶液のpHを安定に保ちます。細胞培養や生化学反応において、わずかなpHの変動でも細胞の生理状態や酵素活性に大きな影響を与える可能性があります。リン酸緩衝系は、生理的なpH範囲である約pH 7.4付近にpKa値を持つため、細胞が生み出す酸性またはアルカリ性の代謝産物によるpH変化を効果的に抑制し、細胞にとって最適な環境を維持するのに役立ちます。

関連する溶液

PBSは細胞実験で広く用いられる緩衝生理食塩水の一つですが、他にも様々な種類の緩衝液が存在します。例えば、トリス緩衝生理食塩水（Tris-buffered saline, TBS）も細胞実験で用いられますが、トリス緩衝液はリン酸緩衝液とは異なる緩衝原理に基づき、細胞によってはリン酸よりもトリスの方が適している場合や、その逆の場合があります。また、単なる生理食塩水（0.9% NaCl溶液）は等張性を持ちますが、緩衝能力はほとんどありません。PBSは生理食塩水の等張性という特性に、リン酸塩による緩衝能を加えた改良版と言えます。

まとめ

リン酸緩衝生理食塩水（PBS）は、その無毒性、等張性、そして緩衝能力から、細胞の洗浄、希釈、保存、さらには各種アッセイの希釈液や基材として、細胞生物学や生化学実験において不可欠な基本的な試薬となっています。その多様な組成は、幅広い実験ニーズに対応することを可能にしています。

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